算数の学びと指導ー市原式

唯物弁証法の視点から算数教育を見直した小学校教師の著作集

算数教育に於ける教条主義の克服(3)

4. 一つの数理の発展段階では、演繹的な思考が主役となることがある。

 ここでも、まずわたしの実践を紹介しよう。

 先に紹介した6年生の“立体図形”の指導の続きである。

つぎの日、わたしは角すいをとりあげ、その頂点の数、面の数、辺の数について指導した。ところが、このとき子どもたちは角柱を学習したときのように帰納的な方法によらないで、N角すいの頂点の数はN+1、面の数もN+1、辺の数はN×2になることを、三角すいを調べるだけで気づいた。そこで、わたしはそれが四角すいにも他の角すいにも真理であることを確かめるという学習方法をとった。

 また、1年生の繰り上がりの計算指導でも、8+3、7+6といった計算では、9+3、9+6---といった被加数が9のときの計算を指導するときとはちがって、8+3では、まず2をたして1をたせばよく、7+6のときは、7に3をたして3をたせばよいと、すぐ気づいた。1年生の子どもでも、被加数が9のときに帰納的に発見した“10に対する補数に着目して計算すればよい”という結論を、一般化して、被加数が8の場合はまず2をたせばよく、被加数が7の場合は3をたせばよいという。いわば普遍的命題から特殊命題を導く演繹的な思考ができたことにおどろいた。

 さて、ここでわたしが強調しておきたいことは、この段階で演繹的思考が有効に働くためにはそれに先立つ導入段階で帰納的方法によって一般的結論をひき出し、血の通った法則・数理として子どもたちに理解されていなければならないということである。角柱の頂点の数N×2,面の数N+2,辺の数N×3が、それぞれどういう意味を持っているか具体的に理解されていなければ、角すいの頂点の数がN+1であり、面の数もN+1であり、辺の数がN×2であることを引き出せなかったであろう。また、9+3の計算で、9にまず1を足すことがどういう意味をもっているか正しく理解していなければ、8+3の計算で演繹的に、まず8に2を足せばよいと気づかないであろう。8に1を足す子どもが出てきても不思議でない。

 ローゼンタリは“一般的なものから個別的なものへの推論(演繹)は、一般的なものが予め形成されることなしには不可能である。しかし一般的なものは「それ自身からでも、また空中からでもなく、個別的なものから」導きだされなければならぬ、とエンゲルスは指摘した。換言すれば、一般的なものから特殊的なものへの推論は、特殊的なものから一般的なものへの推論なしには不可能であり、演繹は帰納なしには不可能である。”と帰納と演繹の弁証法的な関係について述べている。

 一方、フォガラシは“教授の段階がたかまると、ますます帰納と演繹が統一されるように努めなければならない。そうすることによって、狭い、平板単調な経験主義と、一面的に抽象的な思考にふける傾向との二つの一面性が防止される。さらに高度になると、高度な科学的思考の陶冶が問題になる。演繹なしの科学というものは存在しない。したがって、演繹推理を正しく適用する方法を自覚させないことには、科学的思考を陶冶することはできない。”と言っている。

(つづく)

 

( 掲載雑誌は不明。1980年代の掲載と思われる)