算数の学びと指導ー市原式

唯物弁証法の視点から算数教育を見直した小学校教師の著作集

教えたいことは 教えるな!(1)

―学習の焦点化と主体的学習―

 

1. "たまいれ”の学習

 わたしが附属小学校で、一年生を担任していたときのことです。教生のA君が“たまいれ”という単元で、10以上の数の数え方と記数法を指導することになりました。子どもたちは、今日は“たまいれあそび”ができるというので、朝からとても張り切っていました。いよいよ算数の授業が始まりました。

「今日は、たまいれあそびをします。みんな10より多い数、数えられますか。」

「ハーイ。」

「では、この赤い玉はいくつでしょう。」

 A君は、黒板の粉うけに赤い玉をたくさん並べてたずねました。

“たまいれ”の学習の主なねらいは、10以上の数の数え方と記数法を理解させることにあるのです。だから、A君は、それをさきに教えておこうという意図だったのです。

 A君は、紅白の玉を10個ずつにまとめ、10がいくつと1がいくつだから、何十何と繰りかえし繰りかえし教えました。ところが子どもたちは時間と共に意欲を失っていきました。期待していた“たまいれ”がいっこうに始まらないからです。やがて、おはじきをいじったり、わき見をしたり、おしゃべりしたりする子が多くなってきました。A君があせって説明を繰りかえせば繰りかえすほど、子どもたちは授業から離れていきました。それでも、どうにか指導案のすじがき通りに授業をすすめて、いよいよ運動場で“たまいれ”をすることになりました。

 ところが、それからがまたたいへんでした。

 A君が、あとから運動場へ出ていってみると、子どもたちは、あちらの鉄棒にぶらさがったり、こちらのジャングル・ジムによじ登ったりしているのです。A君が、しきりに笛をふいてもなかなか集まってきません。さんざん苦労してようやく子どもたちを集めました。そして“たまいれ”を始めました。

 ところが、また今度は“たまいれ”に夢中で、終わりの合図がなっても、なかなかやめようとしません。A君は額に汗を流しながら、

「笛がなったら、すぐやめてもとのところへもどりましょう。」

と声をからしての大奮闘です。

 こうして、ようやく“たまいれ”の授業が終わりました。

 わたしは、この授業をみていて思いました。子どもたちの印象に一番残ったことは一体なんであろうかと。

 おそらく、それは10以上の数を数えたり、書いたりすることではなくて、“笛がなったら、すぐもとのところへもどる”ということではなかろうか。

A君の授業は、全く失敗でした。それは、

 ・教えたいことを、教師が先取りして教えようとしたからです。

 ・それに、おしえたくないことを、事前におさえておかなかったからです。

(つづく)

 

(算数数学指導 小学校編 大阪書籍(1976年) さんすう・しどう・ノートより)