算数の学びと指導ー市原式

唯物弁証法の視点から算数教育を見直した小学校教師の著作集

文章題指導における形式主義の克服(2)

3. 子どもの心に火をつけるために、まず、答えを聞こう

 文章題のことを、一般に“問題”と呼んでいる。しかし、文章題を与えれば、それが直ちに“問題”として自覚されるかどうかは別問題である。

 問題意識は、ある目的意識あるいは課題意識があって、その解決の過程で矛盾に遭遇し、心理的な葛藤を自覚したときに生ずる。したがって、文章題が与えられても、簡単に解決の見通しが得られた子どもにとっては、文字通り“問題にならない”し、全く解決の見通しもなく、解決をあきらめた子どもたちもまた“問題としない”また、誤って解いた子どもも、それでよいと思っている限り問題意識は生じない。

 したがって、文章題そのものは“問題”というよりも“課題”といった方がよいかもしれない。

 さて、わたしはこうした文章題の指導では、まず子どもたちに解答を求め、“答え”を聞くことにしている。

 先の文章題であれば、

「10円」「90円」「40円」「70円」「---」

といった答えがかえってくる。

「あれ、ぼくの答え、間違っているのかな。」

「どうして、10円になるのだろう。」

「あの子は、どうして40円と答えたのかな。」

「ぼくは、やり方がわからないけど、どれがあっているのかしら。」

と、ここですべての子どもが問題意識を持つ。そして、正しい解答はどれであるかが問題となり、子どもの心に火がつく。

 子どもたちは、問題を読みかえし、自分の考えをたしかめ、意見を出し合う。

 “90円”と答えた子どもたちは、ノート代60円と鉛筆代30円の合計だけを求め、おつりを計算しなかったことに気づく。

 また、“40円”と答えた子どもたちは、鉛筆も買ったことを見おとしていたことに気づく。

 こうして、子どもたちは文章題を解くには、問題をよく読むことが大切であること、その中で求答事項を正しく把えることの大切さ、与えられている条件をおとさず読みとることの大切さを学ぶ。そして、新しい文章題を解く場合にこの教訓を生かし、正しい文章解法のすじ道を身につけていく。勿論、一度で身につくとは限らない。なかには同じ誤りを繰り返す子どももいるだろう。しかし、それもまた教訓として同じ誤りを二度と繰り返さないよう教えてやるのが教師の仕事である。教育とは、まさにこのように子どもの主体的達成をたすけてやる仕事なのである。

 

4. 多数意見から、先にとりあげよう

 つぎに、子どもたちの討論を組織するのに、どの解答を先にとりあげるかという問題がある。

 この場合、間違った考えから先にとりあげるというタイプがある。たしかに間違った考え方をとり上げることによって、そこから教訓を引き出そうという意図は分かるし、子どもたちも意欲的にその間違いを追及する場合がある。しかし、それが定石となると、先生が最初にとりあげる“やり方”は、間違った“やり方”だという観念が形成され、最初にそれを説明する子は、全くバツがわるい。

「先生は、間違っていることを知っていて、ぼくにあてるのだからいじわるだ。」と思う。それだけでない。しかも、その間違いが特殊であり、一部の少数の子どもの考えであれば、その間違いを指摘することは、正しい解き方を理解するより、もっとむずかしいことがある。だから、授業が混乱し、茶の木畑へ入ることも多い。

 だからといって、常に正しい解答から先にとりあげるというのもまずい。

 そこで、わたしはより多くの子どもが解答したのを先にとりあげることを原則としている。

 その場合には、その答えが間違っている場合でも、その間違いはほかの子供たちにとっても、陥りやすい一般的傾向であり、理解しやすいからである。一方、とりあげられた子どもも多く多くの友だちが同じ考えであることから、勇気づけられ、みじめな思いをすることがない。しかも、少数意見である正しい解答をした子どもたちは、論理の正しさに確信をもち、はなばなしく論戦をはる。そして、授業は白熱化し盛り上がる。やがて誤りが明らかになり、正しい解法が理解される。

 また、正しい解答が多数者である場合がある。この場合には、その正しい解答を先に取り上げる。その説明は、論理の正しさからいっても、また多く子どもが解答したことからいっても、すべての子どもに理解しやすい。間違っていた子どもたちは、自分の間違いに気づく。それから、その間違いがどこであったかを発表させる。そして、そこから教訓を引き出させる。子どもたちは、自分の間違いに気づき、教訓を引き出したことに満足感を持つ。

 だが、例外もある。正しい解答が少数意見である場合、時としてそれをさきにとりあげることがある。多数にささえられた誤った考え方と、論理の正しさに確信を持った少数意見が火花を散らし、やがて論理の正しい考え方に軍配があがるのである。

(つづく)

 

(1980年代と思われる。掲載雑誌は不明。「算数アラカルト 算数教育への提言(1)」より)