算数の学びと指導ー市原式

唯物弁証法の視点から算数教育を見直した小学校教師の著作集

酋長の算数(1)

 数学というと、もう頭からむずかしいもの、頭が痛くなるものと、思い込んでおられる方が多いと思います。たしかに数学はそうした一面を具えています。しかし本当に数学は、むずかしく面白くないものでしょうか。

 一方、数学は大変重視されています。それは、なぜでしょうか。数学ができなければ高校入試にパスしないからでしょうか。数学は入試のとき、ふるいにかけるためにあるのでしょうか。そして、それにパスするために数学がだいじなのでしょうか。

 勿論、数学はそのようなものではありません。

 数学は、むずかしい複雑な問題を正しくやさしく解決するためにあるのです。

 とおい、とおいむかし、未開人の酋長は、どうして家来の数をつかんでいたのでしょうか。

 おそらく、一人、二人、三人ぐらいまでは、数えられたでしょうが、三十人、四十人もの家来になると、

「たくさんいる。」

というだけで正しく人数を捉えることは、できなかっただろうと思います。

 そこであるかしこい酋長が考えました。

「おい、家来ども、これから小石をひとりにひとつずつ拾って、ここへ持ってこい。」

と、そして、酋長は、その小石を毛皮の袋に入れておきました。たくさんの家来の数は、一袋の小石の数におきかえられたわけです。

 酋長は、その小石の袋を眺めては、

「おれの家来は、これだけいるんだ。」

と思いました。

 幾日かたって、酋長はまた家来を集めました。今度は、袋の中の小石をひとりに一個ずつわたしていきました。全員にわたったとき、袋の中の小石がなくなりました。そこで、酋長はこれで全員集まったのだと安心しました。

 もし、小石が余れば家来がまだ全員集まっていない証拠だからです。

 酋長はなかなかうまい方法を考えたものですね。この方法を使えば家来が何人になっても平気だからです。

 勿論、この方法は長い間、えものを分配したり、食べものを分けた経験から考えだされたにちがいありません。

 それから、何百年、何千年とたつ間に、いろいろと工夫がなされ、最後にもっとうまい方法が考えられました。

小石の代わりに、

「いち、に、さん、し、ご、ろく---」

という数のことば(数詞)を、家来ひとりひとりに対応させていく方法です。この数詞を使えば、重い小石の袋を、いつも腰にぶら下げて歩かなくてもよいからです。

 このように、数学はより合理的で、より便利な方法を求めて発達してきました。

 しかし、数学がこのようにより合理的で、より便利な方法を生み出すためには、そこに抽象と論理が必要なのです。酋長が家来の数を小石の数におきかえるためには、生物、無生物、その外見などのすべてを捨てて、その数だけ抽象しなければなりませんでした。また、家来ひとりと小石1個とを対応させていって、どちらにも余りがなければ、その数は等しいという論理が必要です。そこに数学がむずかしいといわれる一面があります。

 しかし、この抽象と論理のおかげでものごとの本質をみきわめ、それを解決することができるのです。

(つづく)

 

(掲載雑誌は不明。1960年頃の著作と思われる。)