算数の学びと指導ー市原式

唯物弁証法の視点から算数教育を見直した小学校教師の著作集

水道方式のさんすう(2)

 しかし、水道方式の計算指導で一番問題になる点はを筆算形式で指導する場合、一の位から計算していく必要感を、子どもにどうしてもたせるかということです。

 事実、わたしが調べた結果では、家で筆算の方法を教えられた特別な子ども以外は、全員が暗算の方法で十の位からこたえを求めていました。

 それはなぜでしょうか。

 子どもたちは、今まで数をかぞえたり、書いたりするとき、

“にじゅういち、にじゅうに”

とかぞえ、十の位から22と書いてきました。そして、常に22という数の大きさを実感としてもつように具体物をとおして学んできました。そうした子どもたちがを計算するのに、十の位から44とかくのは当然なことです。十の位からこたえを書いていってもなんの不都合もないばかりか、それは、極めて自然であるからです。

 したがって、水道方式の計算指導をそのまま認めると、こうした子どもの自然な考え方を否定し、必然性を無視して、という計算の段階で、筆算のやり方を一方的におしつけ、その型にはめ込む以外にはありません。勿論水道方式では筆算による計算法を理解させるために、タイルなどの教具を使って、子どもたちの理解を助けるように考えられてはいますが、やはり筆算形式をとらなければならないという必要悪をもたせることはできません。

 わたしたち大人から考えれば、筆算形式は、どんな大きな数の計算にも役立つ計算法だから教えなければならないと、その必要性を感ずることもできますが、そうした大きな数の計算に直面したこともない子どもたちに、また現実的なものの考え方をする子どもたちに、その必要を感じさせることは、容易なことではありません。どんなに言葉の上で、その必要を説明しても、やっぱり実感としてそれをもつことはできません。

 わたしが、“酋長のさんすう”で述べた数学教育のねらいからいって、こうしたおしうり的教育は、決して望ましい指導でないことは、今さら言うまでもありません。子どもをコチコチのゆで卵にしてしまうだけです。

(つづく)

 

(掲載雑誌は不明。1960年頃の著作と思われる。)