水道方式のさんすう(5)
ここで、数と計算の発展的は体系について考えてみましょう。
子どもたちは、はじめ十以内の計算をするとき、指を使います。指は、子どもたちにとって最も身近かにあり、しかも、十以内の計算をするのに大変便利で信頼のできる計算方法です。指算という形式は、十までの数の計算という内容に一番あっているわけです。
ところが子どもたちの生活経験が拡がり、また、指算によって十までの計算に習熟してくると、8+7とか15+3と言った計算にぶっつかるようになります。こうなると両手の指だけではまにあいません。どうしても暗算である程度処理しなければならなくなります。ところが、幸い今まで十までの数の計算を指算でやってきたおかげで、数に対する実感が培われ、数を念頭で捉える能力が養われてきています。こうして、今まで最もたよりにしていた指算に代わって暗算が、子どもたちの計算手段となるのです。
さて、暗算が子どもの計算手段となると、子どもたちの計算力は急速に伸びてきます。46+23といった大きな数も、念頭で処理できるようになるのです。これは、暗算という方法が拡大された計算内容にあっているからです。
しかし、この暗算もやがて指算と同じようにその席を筆算にゆずらなければならなくなります。それは、子どもたちの生活がさらに拡大され、また、暗算という計算手段によって、数範囲が急速に拡張されるからです。暗算によって二位数と二位数の計算になれてくると38+46といった計算や、67+84といった計算にたえずぶつかるようになります。このような計算は、当然暗算を否定して、位取りの原理にささえられて、分析的に行う筆算形式を要求することになります。ところが幸いに、このときも今まで行ってきた暗算という形式の中で、筆算を行う場合に必要な位取りの原理に対する理解や、分析的な考え方になれてきています。
という計算をする場合、全体として数に対する実感をもち、総合的な方法をとりながら、24にまず30をよせ、つぎに5を加えるという分析を行い、またやがて、十の位は20の2と30の3で5、一の位は4と5で9と、位取りの原理に対する理解を深めているからです。尚、0たす0が0になることもといった計算を暗算で行う中で明らかになり、筆算形式による計算に必要な条件が準備されるのです。
こうして、暗算は、自ら筆算への移行の条件を準備し、数範囲を拡張することによって、筆算に世をゆずるのです。
胎児がお母さんのおなかの中で大きくなり、やがてお母さんのおなかを否定して、この世に生まれて赤子になるように、子どもたちの計算力も指算というお母さんのおなかの中で生長し、やがて指算を否定して暗算という、うぶ着をまとった赤子になるのです。しかし、何時までもうぶ着を着ていては体をしめつけ生長をはばみます。だから今まで体を守って大きくしてくれたうぶ着を脱ぎ捨てて、学生服を着なければなりません。筆算は、学生服なのです。
* * *
すべてのものは、このように発展しています。この発展の法則をとらえてこそ生き生きとした算数教育をうちたてることができるのです。
水道方式の計算体系は、赤子に大きな学生服を着せる結果になります。それでは、赤子は風邪をひいて死んでしまいます。
水道方式の主張する一般から特殊へ
の原理そのものは一つの真理ですが、それを形式的に暗算の範囲にまで適用したことに問題があるのです。
すべてのものが、変化し発展していきます。
さんすうも、生物も、世の中も、ものごとを固定化し、静止させたときには、真実でなくなります。
わたしの算数教育は、“発展方式の算数教育”です。
(おわり)
(掲載雑誌は不明。1960年頃の著作と思われる。)
水道方式のさんすう(4)
わたしは、という型の計算をつぎのように指導しました。
子どもたちの前に、ボール紙で作った大きな貯金箱をみせ、その貯金箱にお金が23円入っていることをあてさせ、つぎに10円玉は左に、1円玉は右に整理して入れてあることをひらいてみせました。
そして、再びふたをしめて、そこへ20円を貯金すると、いくらになるかを考えさせました。
子どもたちは。一斉に手をあげ、
“43円になります”
とこたました。貯金箱をひらいてそれをたしかめると、子どもたちはあっていたことに大満足です。こうしてつぎに30円、20円と加えてから、
“どうして、まちがいなくいくらになったか、わかったのですか”
とたずねると
“23円に20円をたすときは。10円玉が4つになるでしょ。そして1円玉はそのままでしょ。だから43円ということがわかります”
とこたえました。
そして、23+20、43+30、73+20などの計算は、十の位だけが変わることにも気づきました。
こうして、54+30、41+50---などの計算も、頭に貯金箱をえがきながらなんの抵抗もなく計算できるようになったのです。
教師の方から、この計算はこうしてやるのだとおしつけるのでなしに、子どもたちが計算するときのよりどころとなるような具体的な条件と場を構成してやり、子どもたちに自由に考えさせるという方法をとったのです。
だから、子どもたちは、与えられた条件に対して、最善の方法をとるわけです。
したがってといったくり上がりの計算がでてきたときは、子どもの方から、その計算の最善の方法として筆算形式に切りかえていきました。
こどもたちは、自主的に常に合理的な方法を求めていったわけです。
(つづく)
(掲載雑誌は不明。1960年頃の著作と思われる。)
水道方式のさんすう(3)
では、どうしてこうした“水道方式による計算指導”が叫ばれるようになったのでしょうか。それには、深い理論的な根拠もありますが、一つには、今までの計算指導が、やはりコチコチのゆで卵にしてしまう指導法が多くとられてきたからです。
を指導するとき、先生たちは
“まず、22に20をよせましょう。いくつになりますか。”
“そう、42ですね。そこへ2をよせるといくつですか。”
“44ですね“
というように、勿論、実際にはもっと親切に教えられていますが、結局暗算では、こうやるのだと、一つの形式にはめこむような指導が取られてきたのではないかと思います。
ところが、同じ先生が の計算を指導するときには
“今日から、ひっさんの勉強をします。ひっさんは、一の位からやるのです。“
これでは、子どもたちが混乱するのは当然です。
では、なぜ十の位から計算しでは、どうして一の位から計算するのか、その理由がはっきりしないからです。
これは現場の先生たちがわるいのではありません。ある教科書では、
36+25という計算は、暗算で指導することになっており、325+153という計算で筆算のやり方を教えるようになっています。
325+153という計算では、くり上がりが一つもなく、筆算でやる必要性はすこしもありません。それに反して、36+25という計算では、一の位がくり上がるので、この計算こそ筆算でやる方が便利です。・
だから、36+25を暗算形式でやらせ、325+153を筆算形式でやらせるためには、おしつける以外にはないのです。
即ち、今までの計算指導は、暗算から筆算へという方法をとりながら、やっぱり必然性とか必要感を無視して、型にはめ込む詰め込み主義がとられてきたわけです。
そこで、どうせコチコチのゆで卵にするくらいなら、筆算という一般的な計算方法をはじめから教え、それで固めた方が途中できりかえる必要もなく合理的だというわけです。
しかし、ここでもう一度“酋長のさんすう”のエピローグで述べたことを思い出してください。
“子どもたちを小石にするのではなくて、酋長にすることです”
算数教育は、計算機械のような人間を育てることが目的ではなくて、正しい判断力と、正しい思考力をもった自主的な人間を育てることに、その目的があるのです。
(つづく)
(掲載雑誌は不明。1960年頃の著作と思われる。)
水道方式のさんすう(2)
しかし、水道方式の計算指導で一番問題になる点はを筆算形式で指導する場合、一の位から計算していく必要感を、子どもにどうしてもたせるかということです。
事実、わたしが調べた結果では、家で筆算の方法を教えられた特別な子ども以外は、全員が暗算の方法で十の位からこたえを求めていました。
それはなぜでしょうか。
子どもたちは、今まで数をかぞえたり、書いたりするとき、
“にじゅういち、にじゅうに”
とかぞえ、十の位から22と書いてきました。そして、常に22という数の大きさを実感としてもつように具体物をとおして学んできました。そうした子どもたちがを計算するのに、十の位から44とかくのは当然なことです。十の位からこたえを書いていってもなんの不都合もないばかりか、それは、極めて自然であるからです。
したがって、水道方式の計算指導をそのまま認めると、こうした子どもの自然な考え方を否定し、必然性を無視して、という計算の段階で、筆算のやり方を一方的におしつけ、その型にはめ込む以外にはありません。勿論水道方式では筆算による計算法を理解させるために、タイルなどの教具を使って、子どもたちの理解を助けるように考えられてはいますが、やはり筆算形式をとらなければならないという必要悪をもたせることはできません。
わたしたち大人から考えれば、筆算形式は、どんな大きな数の計算にも役立つ計算法だから教えなければならないと、その必要性を感ずることもできますが、そうした大きな数の計算に直面したこともない子どもたちに、また現実的なものの考え方をする子どもたちに、その必要を感じさせることは、容易なことではありません。どんなに言葉の上で、その必要を説明しても、やっぱり実感としてそれをもつことはできません。
わたしが、“酋長のさんすう”で述べた数学教育のねらいからいって、こうしたおしうり的教育は、決して望ましい指導でないことは、今さら言うまでもありません。子どもをコチコチのゆで卵にしてしまうだけです。
(つづく)
(掲載雑誌は不明。1960年頃の著作と思われる。)
水道方式のさんすう(1)
毎日新聞に
“水道方式のさんすう”の紹介があってから
“水道方式とは、どんなものか”
という質問をよくうけます。
そのPRが
“みんな算数の優等生になる”というのですから、試験地獄に心を痛めておられる世のお母さん方の頭へきたのは当然です。
今回、水道方式のさんすうをとりあげたのは、こうしたお母さん方の、ご質問にこたえるためです。
そして、正しい算数教育の姿を、いっしょに求めてみたいと考えたからです。
水道方式の考え方をやさしく理解していただくために、寄せ算に例をとってお話します。
今までの算数教育では、
20+30、32+4、35+50、63+24
といった、やさしい計算は、暗算でやらせ、
47+26、67+86、242+374
といった計算になってから、筆算のやり方を教えてきました。
(註)
暗算のやり方というのは、上の計算でいうと、63に20をよせて83、83に4をよせて87と計算するしかたで、数の大きさを念頭において、大きい位から寄せていくやり方です。
筆算の方法は、よくご存じのように67+86であれば、一の位は7+6=13だから、一の位にまず3とかき、十の位はくり上がった1とそれに6と8とを寄せて15になるから、5とかき、百の位に1とかいて153とするやり方です。
即ち、筆算は位取りの原理にしたがって一の位から分析的に機械的に計算する方法です。
尚、教科書によっては、23+48とか325+153のように、くり上がり二回の計算や3位数の計算になってはじめて筆算を導くものとがあります。
ところが、水道方式では、はじめから筆算の方法で教えた方がよいというのです。筆算の方法を一度理解すれば、あとどんな大きな数の計算でも同じやり方で答えを求めることができるからです。
即ち、水道方式の考え方は、ある限られた範囲の計算だけにしか通用しないような暗算のやり方を先に教えないで、どんな範囲の計算にも通用するような筆算のやり方から教えた方がよいというのです。
いいかえると、暗算という特殊な計算方法は、あとまわしにして、まず筆算という一般的な計算方法を先に教えよ、というのです。
だから、今までの算数教育の方法は
特殊から一般へ
という方法であったのが、水道方式では
一般から特殊へ
ということになります。
人間を理解するのに、赤ん坊や盲人の研究からはじめないで、健康で正常な成人からはじめよ、というわけです。
この一般から特殊へという考え方が実は水道方式の根本的な考え方です。
したがって、計算指導の体系も、3+4とか7+8といった十までの数の寄せ算ができるようになると、つぎの順序で指導します。
即ち、とか、という形の計算は、一般的であり、とかという形の計算は特殊であるというわけです。
そして、この形がちょうどという水源地からとかという小水源地へ水が流れ、さらに、とかといった各家庭へ水が流れていく水道に似ているところから、“水道方式”という名がつけられました。
この計算体系は、いままでの
という体系とは、大分異なっています。
水道方式は、このように、その指導体系と指導法に於いて、今までの計算指導とは大変かわっていることがわかります。
そして、たしかに水道方式が主張するように、筆算という計算形式は、暗算という計算形式に比べて、どんな大きな数の計算にも通用するというよさを持っています。
また、筆算という形式をとる限り、という計算よりという計算の方が、子どもにもわかりやすく、まちがいも少ないことは、実際に教えてみて、うなづけます。2+2はこどもにとって、それほど抵抗はありませんが2+0には相当の抵抗があります。2+0を3とする子どもが、かなりいるのです。
以上の説明から考えると、水道方式の計算体系は、全く非のうちどころがないように思われます。
(つづく)
(掲載雑誌は不明。1960年頃の著作と思われる。)
酋長の算数(4)
二年生になると、12−3、12−9といった十いくつの数から奇数をひく計算の指導をすることになっています。
この計算のしかたは、いろいろありますが、むかしから減加法と減々法という二通りの方法が多くとられてきました。
減加法というのは、
13−6
のとき、まず十から六をひいて四、四に三をたして七とする考え方であり減々法というのは、
13−6
のとき、十三からまず三をとって十、十からのこりの三をとって七とする考え方です。
減加法と減々法のどちらがよいかということは、いろいろな説があって、一概にいうことはできませんが、現在日本では、減加法が多くとられているようです。
わたしは、ある学校で、二年生の算数の授業をみました。そのとき、ちょうど13−6の計算を指導しておられました。
黒板に十三本のチューリップの図をかいて、
13−6は
10−6+3
と考えて求められることを、説明しておられました。
やがて、子どもたちは、おはじきを使って、この考え方をたしかめることになりました。ところが多くの子どもたちは、おはじきを次のように並べ、図の点線でかかれたおはじきをとるのです。これでは、10−6+3という考え方には、結びつきません。
その先生は、いささかあわてて、
「十三は、十と三でしょう。だから十と三に分けて並べるのですよ。そして十の方から六とるのです。」
と声を大きくして注意されました。
結局、この授業は、失敗におわりました。
子どもにしてみれば、おはじき十三個から六個をとるばあい、十個と三個とに分けて、十個の方から六個をとらねばならないという道理は、どこにもないからです。
子どもたちは、花だんに咲いているチューリップを頭にえがき、端から1本ずつとっていくことを想像したのでしょう。だからチューリップやおはじきでは、十三からまず三をひいて、さらに三をとるという減々法が道理にあうわけです。したがって、ここで減加法のやり方をわからせるためには、チューリップやおはじきでは困るわけです。
そこで、わたしは、減加法のやり方をわからせるために、おかねを使いました。
十二円をもっていて、八円のおもちゃを買う場合、二円出してから十円玉をだすバカはいないからです。子どもたちは、十円だして二円おつりがくるから、残っていた二円とあわせて四円になると極めて、自然に考えてくれました。
数学が理論的であるということは、屁理屈を通すことではなくて、だれもが納得のいく自然な考え方をすることなのです。チューリップで教えた先生は、屁理屈をおしつけてしまったわけです。
これでは、決して正しい論理的な思考力を養うことはできません。数学はものごとの道理にしたがって、すなおに考えることが大切なのです。
したがって、子どもたちの論理的な思考力を育てるためには、目的にあった結論が必然的に導きだされるような素材をえらぶことが、まず大切です。
算数教育の目的は、計算機械や測定機のような人間を育てるためではなくて、どこまでも自主的に判断できる正しい思考力をもった人間を育てることにあります。
計算機械や測定機は、使うものにとっては便利なものですが、自分自身が計算機械や測定機になっては、たまったものではありません。
子どもたちを小石にするのでなく酋長にすることです。
(おわり)
(掲載雑誌は不明。1960年頃の著作と思われる。)