水道方式のさんすう(3)
では、どうしてこうした“水道方式による計算指導”が叫ばれるようになったのでしょうか。それには、深い理論的な根拠もありますが、一つには、今までの計算指導が、やはりコチコチのゆで卵にしてしまう指導法が多くとられてきたからです。
を指導するとき、先生たちは
“まず、22に20をよせましょう。いくつになりますか。”
“そう、42ですね。そこへ2をよせるといくつですか。”
“44ですね“
というように、勿論、実際にはもっと親切に教えられていますが、結局暗算では、こうやるのだと、一つの形式にはめこむような指導が取られてきたのではないかと思います。
ところが、同じ先生が の計算を指導するときには
“今日から、ひっさんの勉強をします。ひっさんは、一の位からやるのです。“
これでは、子どもたちが混乱するのは当然です。
では、なぜ十の位から計算しでは、どうして一の位から計算するのか、その理由がはっきりしないからです。
これは現場の先生たちがわるいのではありません。ある教科書では、
36+25という計算は、暗算で指導することになっており、325+153という計算で筆算のやり方を教えるようになっています。
325+153という計算では、くり上がりが一つもなく、筆算でやる必要性はすこしもありません。それに反して、36+25という計算では、一の位がくり上がるので、この計算こそ筆算でやる方が便利です。・
だから、36+25を暗算形式でやらせ、325+153を筆算形式でやらせるためには、おしつける以外にはないのです。
即ち、今までの計算指導は、暗算から筆算へという方法をとりながら、やっぱり必然性とか必要感を無視して、型にはめ込む詰め込み主義がとられてきたわけです。
そこで、どうせコチコチのゆで卵にするくらいなら、筆算という一般的な計算方法をはじめから教え、それで固めた方が途中できりかえる必要もなく合理的だというわけです。
しかし、ここでもう一度“酋長のさんすう”のエピローグで述べたことを思い出してください。
“子どもたちを小石にするのではなくて、酋長にすることです”
算数教育は、計算機械のような人間を育てることが目的ではなくて、正しい判断力と、正しい思考力をもった自主的な人間を育てることに、その目的があるのです。
(つづく)
(掲載雑誌は不明。1960年頃の著作と思われる。)