算数の学びと指導ー市原式

唯物弁証法の視点から算数教育を見直した小学校教師の著作集

さんすう すらすら(2)

Ⅱ. 数の観念

—生活のなかで数える—

 

1. 教えんでもわかる

 1年生に入学したT君は、とても算数に強い子でした。

 入学してまだ間もない入門期のころ、学校めぐりのなかでみてきた庭のチューリップを赤いチューリップと黄色のチューリップになかまわけして、どちらが多いか数くらべをしたときのことです。私がわざと同じチューリップを二度数えようとしたらこどもたちが「先生 インチキだよ」とさわぎました。

 そのときT君が「あのね、両方ともきちんと横にならべりゃ数えんでもわかるよ」といいました。

 T君は別図のようにならべかえて、赤いチューリップと、黄色いチューリップと1対1に対応させれば数えなくても数がくらべられるというのです。また、T君は、まるくならんでいるものは、どこから数えたか、しるしをつけておけばまちがわないことも教えてくれました。

 T君は、数えかたがいつも速くて、正確です。しかも、このようにすばらしいアイデアを発表してみんなを感心させます。わたしはこのT君がどうしてこんなに算数が強いのか知りたいと思いました。

2. 天神の森のカミキリ虫

 4月の終わりごろ、私はT君の家庭訪問にいきました。ちょうどT君は近くの天神の森でカミキリ虫をたくさん採ってきたところでした。そして得意そうに「先生、カミキリ虫やよ」といって、私がお母さんと話しあっているあいだ、くりかえしくりかえし数えていました。もぞもぞ動くたくさんのカミキリ虫を数えるのですからたいへんです。お母さんの話によると、T君は物を集めることが好きで、このカミキリ虫のほかにも、セミとかカブト虫の幼虫やきれいな小石などをたくさん集めて、毎日のように数えているのだそうです。私は「なるほど、T君が算数に強いのは、それだ」と思いました。

3. 数と集合

 1年生に入学した子のなかには、20まで、なかには50、100までも数詞が唱えられるのに、具体物の数が正しく数えられない子がいます。たとえば、実際に、おはじきを数えさせてみると、おはじきと数詞とを正しく1対1に対応させないで数詞だけをどんどん先に唱えてしまうといったことがあります。数詞を唱えるだけならオウムでもできます。その子は正しい数観念が身についていないのです。

 数の観念は、実在する量を離れて身につけることはできません。数観念の形成は実在する量から集合をつくること、一定の条件にあった他のものと明確に区別できるものの集まりをとらえることが前提です。天神の森で採ってきたカミキリ虫も1ぴき1ぴきくらべれば、その大きさや形などは多少ちがいますが、どれも天神の森で採ってきたカミキリ虫ということで等質なものの集合としてとらえているからこそ数える意味があるのです。T君は、いろいろな物を集め、それを分類したりして、くらしのなかでいろいろな集合づくりをしているのです。そしてカミキリ虫の集合とカブト虫の集合をくらべたり数えたりして—具体物と具体物との1対1対応、具体物の集合と数詞との対応を通して—数観念を身につけているのです。このときにこそ数詞は大きな役割を果たします。“3個のりんご“”3個のおはじき“”3びきの虫“”3本のえんぴつ”---をどれも“さん”という同じ数詞で表すことによって、りんご、おはじき、虫、えんぴつなどの色や形その他の属性を捨象して数だけを抽象し、その観念を身につけることができるのです。

 T君は、カミキリ虫をなん度も数えることによって、数える順序はちがってもその集合の要素の数はかわらないということ、そして最後の数詞がその集合の要素の個数をあらわす数であること、また他のものとはちがった色や形をもつカミキリ虫を数えることによって、数はそうした属性には無関係であることを、経験を通して学んでいるのです。

 正しい数観念は、このように実生活のなかで、実際にいろいろな物の数をくらべたり、数えたりすることによって身につくのです。

 むずかしいいいかたをすれば、正しい数観念は具体物を通して、しかもその具体物のもつ数以外の属性を捨象して—このことは具体物の否定ですが—はじめて身につくのです。

 しかし、最近のこどもたちは、身のまわりから自然をうばわれ、あそびを失い、仕事からしめ出されて、正しい数観念を養う機会が少なくなってきています。

(つづく)

 

新聞「赤旗」に掲載。掲載時期は不詳。1980年代と思われる。