算数の学びと指導ー市原式

唯物弁証法の視点から算数教育を見直した小学校教師の著作集

子どもの論理(6)

4. 子どもは、具体的に考える

 

 30+20、50−15---が、わからなくても、これをおかねで考えさせると、わけなく計算する子どもがいる。これは誰もが知っていることである。

 わたしが1年生を担任していたとき、図のような情景を黒板にかいて

“よしおくんたちは、かくれんぼをしました。7人かくれました。4人みつけました。まだなん人かくれていますか。”

とたずねた。そのとき一人の子どもが

“2人かくれています。”

とこたえた。すると、Kという子どもが、そのあやまりを指摘して

“先生、ちがうよ。まだ、むこうの木にひとりかくれているよ。”

と叫んだ。

 なるほど、“まだ、むこうの木にひとりかくれている”とは、いかにも1年生の子どもらしい考え方である。Kは、ひとりひとりがどこにかくれたかを頭の中にえがいていたにちがいない。だから“むこうの木にひとりかくれている”とこたえたのである。子どもたちは、このように全く具体的に考えている。低学年の子どもは、とくにそうである。

 したがって、抽象的な数の計算になると、大きな抵抗を感ずる。

とたずねると、すぐにこたえられる子どもでも

“4と2では、いくつですか。”

と、いうとできない。

 おはじきの場合は、かぞえればよいが、数字の場合は、かぞえることができないからである。そこで、従来の指導では、この抽象数と具体数の間を、なんどもなんども往復する以外になかった。

 わたしは、何かその過程に欠けているものがあると思った。

 そして、それが心象であることに気づいた。

 かくれんぼの話に例をとろう。

 かくれんぼの問題では、情景こそかかれたけれども、具体的な人のかずはかかれていなかった。けれども子どもたちは、“あの木のむこうにひとり、この木のむこうにふたり、あのくさむらにひとり”とひとりひとりの姿を心にえがいていたにちがいない。それは、具象でも抽象でもなく心象である。

 また、30+20がわからなくても、30円と20円ではいくらですか。ときかれると正しいこたえが求められるのは、おかねを心象にえがいているからである。

 算数の指導では、いつまでも具体にとどまっていることは許されない。どうしても抽象までもっていかねばならない。そのためには具体と抽象のかけ橋として心象を積極的に利用すべきであると思った。

 わたしは、かごの中に入っている柿を心象にえがかせたり、菓子ばこや戸棚の中に入っているおまんじゅうを心にえがかせたり、石の下にかくれている蟹を想像させたりして、この心象計算を指導した。

 はじめは、一方をかごとか箱とか石とかでかくし、つぎには両方ともかくして考えさせるというように、順次具象から心象へもっていった。

 ここで、留意しなければならぬことは、常に数字と結びつけることである。そうしなければ、なかなか数字だけをみて数を心象にえがくことができるようにはならない。

 しかし、このように指導していても、子どもたちは与えられた数が抽象数である場合は、その数を指におきかえて計算しようとする。この場合、やはり指を心象にえがくようにさせることが大切である。波多野完治氏も“算数の学習心理”の中でいっておられるように、指による計算は足場としては必要であるが、その足場は、適当な時期にとりのぞかれねばならないからである。

(つづく)

 

(研究要録1960年、P.3-11)