算数の学びと指導ー市原式

唯物弁証法の視点から算数教育を見直した小学校教師の著作集

算数教育に於ける弁証法の問題(2)

2. 暗算と筆算

 暗算と筆算の関係も、こうした弁証法的な捉え方が必要である。

 たしかに、83+48といった計算まで筆算を導入しないで暗算で答えを求めさせた過去の計算指導は、多くの子どもたちを苦しめ、算数ぎらいを大量に生み出した原因の一つになっていたといえよう。

 しかし、上のような計算をするのに、筆算形式で、一の位から機械的にやらせるのも不自然である。子どもたちにしてみれば、一の位から計算を始めなければならない根拠や必然性がないからである。

 筆算形式によれば、どんな大きな数の計算でも位取りの原理にしたがって機械的にできるというよさがある。しかし、現実にそうした多位数の計算に直面していない子どもたちにとって、ここでそのよさをどんなに説明してもそれを実感させることは無理である。そればかりか、位取りの原理に基づいて位ごとに計算していけば、数の大きさを実感しなくても機械的に正しい答えが求められることから、—それは筆算のよさでもあるが—そのことがかえって、この時期の子どもにとってたいせつな、数の大きさに対する実感を育てないという弊害すら招く、つまり、筆算形式が将来有効だからという理由で、この段階で暗算形式を否定することは、将来卵の殻は不用になるからといって、ひよこにならないうちに卵の殻を捨て去るようなものである。

 では、この暗算と筆算の関連をどのように捉え、どのような体系で指導すればよいだろうか。簡単に述べておこう。

 端的に結論から述べると、二位数たす二位数でくり上がりのない計算で、まず積み算形式のみ導入し、二位数たす一位数でくり上がりのある計算から、尾加法によるいわゆる筆算形式を採用する。これが最も自然であり、子どもの実態に合い、合理的だというのがわたしの主張である。

 23+45という計算では、横書き形式より、縦書き形式の方が、内容に合致した形式であることは誰しもが認めるところだと思う。しかし、この段階では、尾加法をとる必要はない。したがって、子どもたちは当然頭加法で計算する。それは数を唱えるときひとつのまとまった数として大きい位から「ニジュウサン」「シジュウゴ」「ロクジュウハチ」と唱えることから極めて自然な成りゆきである。これに対し、位取りの原理を十分理解させておけば、一の位から計算させてもよいという反論も予想されるが、たとえ位取りの原理を理解していても、大きい位から10が6個と1が8個で68と捉えることは、数の全体的大きさを捉えるうえからもたいせつであり、一の位から先に計算させる必然性の説明にはならない。

 さて、この縦書き形式の導入によって子どもたちの計算力は飛躍的に発達する。縦書き形式は、多位数の計算に照応した形式だからである。

 そして、この縦書きによる頭加法という形式の中で、筆算へ移行する準備が行われる。即ち、上の23+45という計算をするのに、はじめのうちは「23に40たして63,63に5たして68」と計算していた子どもたちも、なれてくると「20と40で60、3と5で8だから68」といわゆる位取りに着目して計算するようになる。さらに「2と4で6、3と5で8」と全く位取りの原理にのっかって計算する子どももでてくる。

 これは、すでにひよこが生まれる前に卵の殻の中でくちばしができ、羽ができ、足ができるのと同じように、頭加法という形式の中で筆算への準備がすすんでいるのである。

 一方、縦書き形式の導入によって子どもたちの計算力が急速に伸び、それと共に計算範囲の拡張をうながし、当然くり上がりのある計算も要求されるようになる。そして、これまで筆算形式の導入に必要な能力を発達させてきた頭加法は新しい内容に合わない形式として否定され尾加法に席をゆずることになる。23+45という計算では不自然であった尾加法が39+6や38+27という計算では、合理的な算法として必然性をもって登場してくるのである。暗算という過程は、筆算を安産させるための前提条件ともいえる。23+45という計算段階で尾加法を教えようとすれば、おしつけにならざるを得ないのに、この段階では子どもたちからその算法を引き出すことさえできるのである。

(つづく)

 

(1981年7月28日の掲載。掲載雑誌は不明)