算数の学びと指導ー市原式

唯物弁証法の視点から算数教育を見直した小学校教師の著作集

教えたいことを 教えないで学ばせるには(9)

2. 暗算形式と筆算形式

 暗算と筆算の関係も、こうした弁証法的な捉え方が必要です。ところが、暗算か筆算かということで二律背反的な論争が続けられています。

 たしかに、83+48といった計算まで暗算形式で答えを求めさせることは、多くの子どもたちを苦しめ、算数ぎらいを大量に生み出す原因の一つになっています。

 しかし、上のような計算をするのに、筆算形式をおしつけ、一の位から機械的にやらせるのも不自然なことです。子どもたちにしてみれば、一の位から始めなければならない根拠や必然性がないからです。

 筆算形式はどんな大きな数の計算でも位取りの原理にしたがって機械的に計算できるというよさがあります。しかし、現実そうした計算に直面していない子どもたちにとって、ここでそのよさを実感させることは無理な話です。そればかりか、位取りの原理に基づいて位ごとに計算していけば、数の大きさを実感しなくても正しい答えが求められることからーそれは筆算のよさですが、そのことがかえって、この時期の子どもにとってたいせつな、数の大きさに対する実感を育てることができないという結果すら招きます。つまり、筆算形式が将来有効だからという理由で、この段階で暗算形式を否定することは、将来卵の殻は必要ないからといって、ひよこにならないうちに卵の殻を捨て去るようなものです。

 では、この暗算と筆算との関連をどのように捉え、どのような体系で指導すればよいでしょうか。

 勿論、この小論でくわしくその体系を述べることはできませんが。

 二位数たす二位数でくり上がりのない計算で積み算形式を導入し、二位数たす一位数でくり上がりのある計算から、尾加法によるいわゆる筆算形式を採用する。これが最も自然であり、子どもの実態に合い、合理的だというのがわたしの主張です。 

 という計算では、横書き形式より、縦書き形式の方が、内容に合致した形式であることは、誰しもが認めるところだと思います。しかし、この段階では、尾加法をとる必要性はありません。

 したがって、子どもたちは当然頭加法で計算します。それは、数を唱えるときひとつのまとまった数として大きい位から「ニジュウサン」「シジュウゴ」「ロクジュウハチ」と唱えることから極めて自然な成りゆきです。なお、位取りの原理を十分理解させてあれば、一の位から計算させてもよいという議論もありますが、位取りの原理を理解していても、大きい位から10が6個と1が8個で68と把えることは、数の全体的大きさを把えるうえでもたいせつであり、一の位から先に計算する必然性の説明にはなりません。

 さて、この縦書き形式の導入によって子どもたちの計算力は急激に発達します。縦書き形式は二位数以上の計算に照応した形式だからです。

 そして、この縦書きによる頭加法という形式の中で、筆算へ移行する準備が行われます。

即ち、上の23+45という計算をするのにはじめは「23に40たして63,63に5をたして68」と計算していた子どもたちも、つぎには「20+40で60,3と5で8だから68」といわゆる位取りの原理による計算になれてきます。これは、ひよこが生まれる前に卵の殻のなかでくちばしができ、羽ができ、足ができるのと同じように、頭加法という形式の中で筆算への準備がすすんでいるのです。

 一方、縦書き形式の導入によって子どもたちの計算力が急速に伸びると共に計算範囲の拡張をうながし、当然くり上がりのある計算も要求されるようになります。そして、これまで筆算形式の導入に必要な能力を発達させてきた頭加法は新しい内容にあわない形式として否定され尾加法に席をゆずることになるのです。23+45という計算では不自然であった尾加法が39+6や38+27という計算では、合理的な算法として必然性をもって登場してくるのです。暗算という過程は筆算を安産させるための前提条件でもあるのです。23+45という計算段階で尾加法を教えようとすれば、おしつけにならざるを得なかったのに、ここでは子どもたちから引き出すことさえできるのです。そしてそのよさを心からなっとくさせることもできるのです。

 即ち、“教えたいことを教えないで学ばせる”ことが可能になるのです。

(おわり)

 

(算数数学指導 小学校編 大阪書籍(1976年) さんすう・しどう・ノートより)