算数の学びと指導ー市原式

唯物弁証法の視点から算数教育を見直した小学校教師の著作集

文章題指導における形式主義の克服(1)

1. はじめに

“計算は得意だけど、文章題はにがてだ”という子どもが、かなりいる。

 日数教が昭和51年9月に実施した“小学校児童の算数に対する意識調査”でも、算数科の学習内容の中で、文章題を嫌い・不得意とする子どもが最も多く、“文章題に対する児童の反応が、算数の好ききらいを表徴している”とさえ報告している。

 文章題の指導に関しては、今でも構造図や線分図の研究、文章題解法の一般的手続きや文章題の系統など、いくつかの研究や提言があり、現場においてもさまざまな実践がすすめられている。しかし、依然として文章題の指導は、算数科における指導内容の中で、最も困難な領域の一つである。日数教の調査はそのことをうらづけたものと言ってよい。

 その対策は、いろいろ考えられるが、現場の教師としての急務は、なんといっても指導法の改善であろう。そこで、文章題の指導に関して、従来とはちがった角度から、二、三の提言を行いたいと思う。

 

2. 文章題指導における形式主義

 文章題の指導で、つぎのような光景をよく見かける。

 先生が、黒板に問題を提示する。

“ぶんぼうぐやで、60円のノート1さつと、30円のえんぴつ1本をかって、100円だまを出しました。おつりは何円くるでしょうか。”

 子どもたちは、黒板の問題を読み、おつりが何円くるかを考える。そして答えをみつける。答えがわかると、

「ハイ、ハイ」

と手をあげて連呼する。だが先生は、それを制して

「この問題、読める人。」

という。子どもたちはもう答えたくてたまらないのに、権威ある先生は答えさせてくれない。それで、読むために手を上げる。たしかに読まなければ問題は解けない。先生は文章題解法の手順に従って、授業をすすめておられるのだ。なかには読むことに抵抗のある子どももいるだろう。だから先生は何人か子どもに声を出して読ませ、読むことの抵抗をとり除こうとする。しかし、こうしたパターンをいつも繰り返していると、読むことに抵抗のある子どもは、ますます自ら読もうとしなくなる。また、読めない字があっても尋ねなくなる。そのうちに誰かが必ず読んでくれるからである。

 先生は、つづいて

「この問題は、どういうお話ですか。」

と問う。文意を正しく把えさせるためである。子どもたちは

「なんだ。」

と思う。

「それなら初めから『この問題は、何の話ですか。』と書いておけばいいのに、『おつりは、何円ですか』と書いてあるから、一生懸命考えていたのに。」

と思う。それだけではない。先生は、さらにつづけて

「何を見つける問題ですか。」

「何が分かっていますか。」

と問いかけられる。求答事項や与えられている条件を明らかにするためである。子どもたちは、うんざりする。興味は加速度的に失われていく。ワイ、ワイ、ガヤ、ガヤと話し始める。権威ある先生は叱りつける。子どもたちは一瞬静かになる。だが、その静けさは死の静けさだ。

「何と何を買ったのですか。」

「図に、かいてからやりなさい。」

先生に導かれて、子どもたちは立式し、答えを求める。

 だが、このような文章題解法の一般的手続きに従った形式的な指導を、どんなに繰り返しても、子どもたちの主体的な学習態度を育てることはできない。

 たとえ、全員が正しい答えを引き出したとしても、それは子どもの真の力にならない。牛につられて善光寺参りしたおばあさんが、どの道をどう通ってきたか分からないのと同じように、教師という牛に導かれてようやく答えを求めた子どもたちは、自分ひとりの力では新しい問題を解くことができない。

 文章題解決の能力は、このような形式的なパターンをただ繰り返すだけでは子どもの身に、あまりつかないのである。

(つづく)

 

(1980年代と思われる。掲載雑誌は不明。「算数アラカルト 算数教育への提言(1)」より)