算数の学びと指導ー市原式

唯物弁証法の視点から算数教育を見直した小学校教師の著作集

酋長の算数(3)

 一、二年の子どもたちに、図のような正方形をみせて、「このような形をなんといいますか。」と問うと、なかなか「ましかくです。」とは、こたえてくれません。“ましかく”というのは、つぎの図のように、安定した位置におかれた図形だと思っている子がかなりいます。これは、正方形の性質を位置から十分抽象して捉えていないからです。

三年生では、長方形について指導することになっていますが、たいていどの教科書も一つの長方形について、

  • 四つの角が、みな直角であること
  • 向かいあった辺の長さが、それぞれ等しいこと

をたしかめさせ、このような形は長方形ですとかかれています。勿論、ひごで長方形をつくらせたり、はがきを折って向かいあった辺の長さが等しいことをたしかめさせたりして、具体的に理解させるように工夫されていますが、それだけでは、決して長方形の正しい概念を形成することは、できないようです。

 図のような長方形について、長方形の一般的な性質をたしかめさせ、「このような形を、長方形といいます。」

というと、子どもたちは、横が長くて、たての短い形が長方形だと思うかもしれません。勿論、そのような性質は、安定した位置におかれた正方形の場合と同様、どの長方形にもあてはまる一般的な性質ではありませんから、捨て去らねばなりません。

 一つの図形について、親や教師が勝手に必要な一般的性質だけを取り上げて指導しても、子どもは、その図形の一般的でない性質も含めてそれを一般的な性質として捉えてしまう危険があります。

 したがって、図形の正しい概念は数多くの図形からその共通な性質を子どもたち自身が抽象して、はじめて理解できるのです。

 このとき、用語が極めて重要な働きをします。

 長方形に例をとると上野AとBとを、ともに“長方形”と呼ぶことによって、子どもたちは、長方形とは、たて・横の長さには関係がないということを知ります。また、Cも長方形と呼ぶことによって、長方形とは大きさには関係がないことを理解し、さらに、D、Eなども長方形であることを知って、長方形とは、たて・横の長さの割合やそのおき方には、関係のないことを理解します。

 即ち、A、B、C、D、Eのような形を、みな長方形ということによって、それらに共通でない性質、いいかえれば長方形の一般的でない性質は、すべてふるいにかけてしまうわけです。長方形の一般的な性質を抽象するためには、それ以外の性質はすべて捨てなければなりません。

 数学は、決して石あたまではできないのです。本質的でないものは、どんどん捨てされる柔軟な頭が必要です。

「数学は、ゆうずうがきかない。」

ということをよく聞きますが、有名な数学者カントールは、

「数学の本質は、その自由性にあり」

といっています。数学をやって石あたまになるのは、長方形の指導に例をとると、Aのような図だけをとりあげ、既成概念をおしつけて、B、C、D、Eのような形を長方形と認めないようなコチコチのゆで卵にしてしまうからです。

 石あたまにするのは、数学ではなくて、その教え方にあるのです。

 学校で正しい指導をうける前に、家で教えてもらう子どもの中には、形式だけを概念的に理解して、わかったと思っている子がよくあります。そういう子は、たいてい石あたまになってしまいます。

(つづく)

 

(掲載雑誌は不明。1960年頃の著作と思われる。)

酋長の算数(2)

 つぎの“ケーニヒス・ベルクの橋の問題”を考えてもらいましょう。

 これは、位相数学といって現代数学の対象になる問題です。

「ケーニヒス・ベルクの町に図のような七つの橋がかかっています。この橋を、どれも一度ずつ、しかも二度とわたらないで、もとの位置にもどることができるでしょうか。」

というのです。

 一つやってみてください。

 なかなかできないと思います。

 できないはずです。この問題は、オイラーという有名な数学者が、その不可能なことを、すでに証明しているのです。

 では、そのオイラーに代わってかんたんに証明をしてみましょう。

 まず、A、 B、C、Dの四つの地区は第二図のように○で、またそれぞれの橋は、1本の線で表します。

 しかし、A、 B、C、Dの地区は、べつに大きさをもたなくてもかまわないので、第三図のように点で表して考えることにしましょう。

 さて、A、 C、Dは、どれも三本の直線がでています。ところが、それらの点は、どの点を出発点にしても、同じ点が終着点にはなりません。

 Bもまた同じように出発点にすると、終着点にはなりません。

 即ち、出ている直線の数が奇数のときは、みな出発点と終着点とは一致しないことがわかります。

 だから、このケーニヒス・ベルクの橋は、どれも一度ずつ、しかも二度と同じ橋をわたらないで、もとの位置にもどることは、不可能なのです。勿論、オイラーは、もっと厳密に証明したのですが、このようにあの複雑なケーニヒス・ベルクの町を第三図のように、単純な図にかえて、その問題の本質を抽象し、論理的に考えをすすめるところに、数学の特徴があるのです。

 したがって、算数の学習では、たんに計算の方法を理解し、図形の名前を記憶するということだけではなく、こうしたものごとの本質を抽象する力とか、論理的に正しく考えを進めていく力を養うことが大切なのです。

(つづく)

 

(掲載雑誌は不明。1960年頃の著作と思われる。)

酋長の算数(1)

 数学というと、もう頭からむずかしいもの、頭が痛くなるものと、思い込んでおられる方が多いと思います。たしかに数学はそうした一面を具えています。しかし本当に数学は、むずかしく面白くないものでしょうか。

 一方、数学は大変重視されています。それは、なぜでしょうか。数学ができなければ高校入試にパスしないからでしょうか。数学は入試のとき、ふるいにかけるためにあるのでしょうか。そして、それにパスするために数学がだいじなのでしょうか。

 勿論、数学はそのようなものではありません。

 数学は、むずかしい複雑な問題を正しくやさしく解決するためにあるのです。

 とおい、とおいむかし、未開人の酋長は、どうして家来の数をつかんでいたのでしょうか。

 おそらく、一人、二人、三人ぐらいまでは、数えられたでしょうが、三十人、四十人もの家来になると、

「たくさんいる。」

というだけで正しく人数を捉えることは、できなかっただろうと思います。

 そこであるかしこい酋長が考えました。

「おい、家来ども、これから小石をひとりにひとつずつ拾って、ここへ持ってこい。」

と、そして、酋長は、その小石を毛皮の袋に入れておきました。たくさんの家来の数は、一袋の小石の数におきかえられたわけです。

 酋長は、その小石の袋を眺めては、

「おれの家来は、これだけいるんだ。」

と思いました。

 幾日かたって、酋長はまた家来を集めました。今度は、袋の中の小石をひとりに一個ずつわたしていきました。全員にわたったとき、袋の中の小石がなくなりました。そこで、酋長はこれで全員集まったのだと安心しました。

 もし、小石が余れば家来がまだ全員集まっていない証拠だからです。

 酋長はなかなかうまい方法を考えたものですね。この方法を使えば家来が何人になっても平気だからです。

 勿論、この方法は長い間、えものを分配したり、食べものを分けた経験から考えだされたにちがいありません。

 それから、何百年、何千年とたつ間に、いろいろと工夫がなされ、最後にもっとうまい方法が考えられました。

小石の代わりに、

「いち、に、さん、し、ご、ろく---」

という数のことば(数詞)を、家来ひとりひとりに対応させていく方法です。この数詞を使えば、重い小石の袋を、いつも腰にぶら下げて歩かなくてもよいからです。

 このように、数学はより合理的で、より便利な方法を求めて発達してきました。

 しかし、数学がこのようにより合理的で、より便利な方法を生み出すためには、そこに抽象と論理が必要なのです。酋長が家来の数を小石の数におきかえるためには、生物、無生物、その外見などのすべてを捨てて、その数だけ抽象しなければなりませんでした。また、家来ひとりと小石1個とを対応させていって、どちらにも余りがなければ、その数は等しいという論理が必要です。そこに数学がむずかしいといわれる一面があります。

 しかし、この抽象と論理のおかげでものごとの本質をみきわめ、それを解決することができるのです。

(つづく)

 

(掲載雑誌は不明。1960年頃の著作と思われる。)

子どもの論理(12)

Ⅱ.

 除法の形式についても、全く同じことがいえる。除法の形式には、つぎの短除法形式(A)と長除法形式(B)とがある。

 

 ただし、短除法は除数が一位数の場合に限られた計算形式であり、長除法にはその制限がない。

 さて、最近では、最初から長除法形式で指導されることが多いようである。それは、長除法形式には除数の制限がなく、同じ形式で、機械的に計算ができるというよさを持っているからである。

 しかし、長除法では、つぎのような場合あまりにも形式的で、子どもたちの現実的な思考と一致しない。

 

子どもたちは、”なぜ、4や6をわざわざ下へおらさないかんの、そんなめんどうなことせんでもいいでしょ“

というのである。

 たしかに、このような計算では、長除法形式を採り入れる必然性は全くない。子どもたちにとっては、この形式が将来2位数以上の数で割る場合に便利だということはわからないし、たとえ教師がそう説明しても、実感をもつことができないからである。

 これも形式と内容の不一致が、子どもの現実的な思考とあわないためである。

 したがって、除法指導ではつぎのように内容と形式とを一致させ、発展的に取り扱わねばならない。

 

(1)600÷3、320÷4

 これは、3年の内容である。この段階では、勿論、積算形式を採り入れる必要はない。横書きのままで暗算でやらせるのがよい。これを積算形式でやらせると、かえって位取り毎に形式的に計算するので、数の大きさに対する実感を失い、下のような誤りをおかす子どもがでてくる。

 

 

(2)846÷2,903÷3、124÷4

 この段階から4年で取り扱う。そして積算形式を採り入れる必然性がでてくる。それは、九九の適用が2回以上となり位取りを考慮しなければならないからである。しかし、いきなり積算形式を持ち出すのはよくない。やはり最初は横書きのまま暗算で求めさせ、あとから積算形式を指導するのがよい。子どもたちは数の大きさを一々考えなくてもできる積算形式のよさを理解する。

 

 尚、ここで長除法の形式を指導する必要はないが、将来長除法を指導する立場から、記号は  でなく  を採用するのがよい。

 

(3)852÷3、6924÷4

 この程度の計算も、長除法でする必要はない。

 

子どもたちは、上のように部分剰余だけをかいて計算する。

 

(4)138÷23

 この段階で、はじめて長除法形式が導入される。

 

 138÷23では、最初、短除法と同じように、23×6の積を書かないで計算していたが、ためし算を別にかいてする代わりに被除数138の下に、ためし算23×6の積をかかせ、長除法形式の自然な導入を行った。

 

(5)768÷32

 この段階で、長除法形式が一応完成する。また、そのよさも発揮する。

 

 それは、計算内容が発展し、長除法形式を採らねばならぬ必然性を生みだしたからである。 

 このように、除法に於いても形式を静的、固定的に捉えないで、発展的、動的に捉え、内容との関連に於いて必然性の上で捉えなければならない。

 計算内容が九九1回の適用といった低次の段階では、暗算形式による除法が対応し、1位数で割る計算の中、九九を2回以上運用する場合は、短除法形式が暗算形式にとって代わる。そして、2位数で割る計算になると、短除法形式は発展した計算内容に照応しなくなり、長除法形式にその席を譲ることになる。

 

7. あとがき

 これを機会に、さらに“子どもの論理”を探ってみたいと思っています。時間の関係で、これだけしかまとめられませんでしたが、またの機会にこの続きをかきたいと思っています。

 大方のご批判を心から期待しております。ー1960.9.16ー

(おわり)

 

(研究要録1960年、P.3-11)

子どもの論理(11)

 数えたし、数えひく形式に代わって、念頭による暗算形式がとり入れられると、子どもたちの計算能力は急速に発達する。それは暗算形式が、数えたし数えひく形式に比べて、20+30、43+26といった計算内容に正しく照応しているからである。

 43+26を数えたす形式で計算してみれば、如何に暗算形式がすぐれているかがわかる。

 また、暗算形式は、数範囲をますます拡張していく。23+42を計算することによって65を、65+73を計算することによって138をと---。

 ところが、この暗算形式も自ら数の拡張をうながすことによって、数えたす数えひく形式と同じように、自らを否定し新しい形式に席をゆずらなければならなくなる。即ち、78+96

といった計算になると、念頭で数を保持することが益々困難となり、位ごとに形式的に加えていく筆算形式に世をゆずることになる。

 しかも、暗算形式の過程で、子どもたちの位取りの観念や数の分析的な捉え方は充分育てられている。

 26に43をよせることによって、43を40と3に分析したり、26に40をよせ、66に3をよせることによって位取りの観念が明らかになっている。

 尚、わたしの実践によって、暗算という形式の中で、部分的な変化がその過程で行われることにも気づいた。即ち、26+43を計算するのに、はじめは26+40+3と計算しているが、やがて20+40=60、6+3=9と位取り毎に頭加法で計算するようになる。

 これは、暗算という形式をとりながら、位取りに着目した筆算の方法と本質的には変わりがない。

 勿論、筆算形式が導入されたあとでも、暗算形式の存在価値が失われるわけではない。筆算を行う過程では、どうしても暗算が必要であり、また今までの数範囲の計算には依然として用いられるからである。その上筆算形式が形式的、機械的な計算法であることから、それを補う概算の方法としても用いられる。

 さて、一定の計算内容には一定の計算形式が対応することは、上の考察でも明らかになったと思う。しかもその対応関係は静的なものでなく、数の拡張が計算形式の変革をうながし、計算形式の変革が数の拡張を促進するといった力動的関係にあることがわかる。

 私たちの計算指導の体系は、こうした発展的、力動的なものでなくてはならない。このような体系であって、はじめて子どもたちの現実的なものの考え方と一致する。

(つづく)

 

(研究要録1960年、P.3-11)

子どもの論理(10)

6. 子どもは、現実的に考える

Ⅰ.

 今から十年も前の話である。当時は、加法九九、減法九九を指導したら、直ちに筆算を指導することが常識になっていた。

 筆算で計算すれば、どんな大きな数でも位取りの原理にささえられて、桁ごとに機械的に計算していけば、一々数の大きさを意識することなく、正しい答えが求められ、しかも途中で、頭加法形式から尾加法形式に切りかえるわずらわしさもないと考えられていたからである。

 ところが、最初、子どもたちはなかなか筆算のよさを理解してくれなかった。

“23に40たすと63、63に6をたして69。“

と頭加法で計算するのである。まして、30たす40といった計算では、0+0=0、3+4=7だから70とは、決して計算しない。なん回もなん回も、色カードを使用したり、色箸を利用したりして筆算形式になれさせたことを憶えている。

 そこで、4年前に2年生を担任したときは、30+40、23+46といった計算を暗算形式で指導した。指導はスムーズに行われた。その上、38+46といった計算では、極めて容易に筆算形式を導入することができた。

 10年前、23+46とか30+40といった計算で、あれほど筆算形式に抵抗を感じた2年生の子どもが4年前38+46といったで筆算形式を導入したときは、どうしてこうもスムーズに理解することができたのであろうか。

 結論は簡単である。23+46とか30+40といった計算では、筆算形式をとる必然性がなく、38+46といった計算になると筆算形式が便利であるからである・

 筆算形式が便利であるというのは、3689+4765といった大きな数の計算を知っている大人の論理であって、20+30とか、43+25といった計算しか知らない子どもたちにとっては、極めて不自然な考え方である。子どもたちは、筆算形式が現在不自然であっても将来役立つ計算形式であるなどとは考えない。子どもたちの論理は現実的である。この段階の子どもたちが筆算形式を有難い形式であるなどと思わないのは当然である。わたしたちは、内容と形式との関係を子どもたちの現実的な思考を土台に発展的にとらえなければならない。

 数えたし、数えひく段階から発展した計算形式が、頭加法による暗算形式をとるのは、自然な姿である。36を“ろくとさんじゅう”とは一般にいわない。”さんじゅうろく“と唱える。また、1年生では”1、2、3、---13”と個数を数えたとき、常に全体の集合と13とを対応させてきた。したがって、それにつづく20+30とか24+46といった計算の段階では、当然、数の大きさを意識する頭加法が採られる。

(つづく)

 

(研究要録1960年、P.3-11)

子どもの論理(9)

 それから10年後の今年、再び5年生の子どもを担任して、わたしはこの5月また0を処理するかけ算の指導をした。

“つぎのかけざんを、暗算でしましょう。”

といって、わたしは黒板に

30×2

とかいた。子どもたちは、”こんなの、わけない“といった様子で一斉に手をあげた。

”60です“

“そうですね。じゃ70×3は”

といって、また黒板に

70×3

とかいた。子どもたちは

“210”とこたえた。こうして

  400×2

  600×6

  900×8

  2400×2

  3200×3

  -------

と、つぎつぎと問題を出していった。子どもたちは

“先生、そんなの簡単やよ”

という。

“そう、何かうまい方法があるのですか。”

“先生、3200×3やったら32を3倍しておいて0を2つつけやいいよ。”

“なるほど、いいことみつけたね、どうして32を3倍しておいて0を2つつけやいいのだろう。”

“それはね3200は32の100倍でしょ。それで32を3倍して100倍するで0を2つつけやいいのです。”

十何年前、あれほど苦労してわからせたことが、こんなに簡単にしかも子どもの方から、みつけてくれるのである。

 一体これは、どういうわけだろうか。

 勿論、はじめ子どもたちは、

30×2を、30の2倍だから60と数を分解しないで、こたえをみつけたものが大部分であろう。中には、0×2=0、3×2=6と筆算の方法で考えた子どももいるだろうし、30+30=60と加法で求めた子どももいるであろう。しかし、いずれにしても、既習の方法で、その結果を求めたことには間違いない。

70×3も400×2も、同様にして求めた子どもが多いと思われる。

 ところが、類似の問題をいくつか計算している間に、突如としてその法則を発見する。

 それは、めん鳥にいく日かあっためられた卵から、急にからを破ってひな鳥が生まれ出るのと同じように、

 では、それは全く突然なのであろうか、そうではない。卵と同じように、外にあらわれない変化が、法則を発見する以前の過程の中で起こっていたのである。

 そのような変化が、十何年前に行ったように1回だけの経験で起きるはずがない。卵がかえるには、幾日かあっためられなければならないように、同じような経験がくり返されなければならない。

 質的変化は量的変化を前提として、おこなわれる。

 勿論、法則の発見によって学習が終わるわけではない。

  3200×3は32×3の結果に零を2つつければよいといっただけでは、充分でない。なぜそうなるのかを理解しなければならない。

 そこに過去の知識が動員されて、理論的な推理が行われる。しかし、この時はすでに法則を知った上で行われる推理であって。十何年前の子どもが行った暗中模索の推理とはちがう。

 さて、ここでは帰納的方法の重要性について述べたのであるが、このことは決して演繹そのものを否定したのではない。

 小学校、特に低学年・中学年では、この帰納的方法が多く用いられるが、高学年では演繹的推理する能力も充分養われなければならない。帰納は常に演繹とかたく結びついており、特殊から一般を導く帰納的方法と同様一般から特殊へと判断する演繹的方法も表裏一体となって指導されなければならない。

(つづく)

 

(研究要録1960年、P.3-11)