算数の学びと指導ー市原式

唯物弁証法の視点から算数教育を見直した小学校教師の著作集

子どもの論理(9)

 それから10年後の今年、再び5年生の子どもを担任して、わたしはこの5月また0を処理するかけ算の指導をした。

“つぎのかけざんを、暗算でしましょう。”

といって、わたしは黒板に

30×2

とかいた。子どもたちは、”こんなの、わけない“といった様子で一斉に手をあげた。

”60です“

“そうですね。じゃ70×3は”

といって、また黒板に

70×3

とかいた。子どもたちは

“210”とこたえた。こうして

  400×2

  600×6

  900×8

  2400×2

  3200×3

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と、つぎつぎと問題を出していった。子どもたちは

“先生、そんなの簡単やよ”

という。

“そう、何かうまい方法があるのですか。”

“先生、3200×3やったら32を3倍しておいて0を2つつけやいいよ。”

“なるほど、いいことみつけたね、どうして32を3倍しておいて0を2つつけやいいのだろう。”

“それはね3200は32の100倍でしょ。それで32を3倍して100倍するで0を2つつけやいいのです。”

十何年前、あれほど苦労してわからせたことが、こんなに簡単にしかも子どもの方から、みつけてくれるのである。

 一体これは、どういうわけだろうか。

 勿論、はじめ子どもたちは、

30×2を、30の2倍だから60と数を分解しないで、こたえをみつけたものが大部分であろう。中には、0×2=0、3×2=6と筆算の方法で考えた子どももいるだろうし、30+30=60と加法で求めた子どももいるであろう。しかし、いずれにしても、既習の方法で、その結果を求めたことには間違いない。

70×3も400×2も、同様にして求めた子どもが多いと思われる。

 ところが、類似の問題をいくつか計算している間に、突如としてその法則を発見する。

 それは、めん鳥にいく日かあっためられた卵から、急にからを破ってひな鳥が生まれ出るのと同じように、

 では、それは全く突然なのであろうか、そうではない。卵と同じように、外にあらわれない変化が、法則を発見する以前の過程の中で起こっていたのである。

 そのような変化が、十何年前に行ったように1回だけの経験で起きるはずがない。卵がかえるには、幾日かあっためられなければならないように、同じような経験がくり返されなければならない。

 質的変化は量的変化を前提として、おこなわれる。

 勿論、法則の発見によって学習が終わるわけではない。

  3200×3は32×3の結果に零を2つつければよいといっただけでは、充分でない。なぜそうなるのかを理解しなければならない。

 そこに過去の知識が動員されて、理論的な推理が行われる。しかし、この時はすでに法則を知った上で行われる推理であって。十何年前の子どもが行った暗中模索の推理とはちがう。

 さて、ここでは帰納的方法の重要性について述べたのであるが、このことは決して演繹そのものを否定したのではない。

 小学校、特に低学年・中学年では、この帰納的方法が多く用いられるが、高学年では演繹的推理する能力も充分養われなければならない。帰納は常に演繹とかたく結びついており、特殊から一般を導く帰納的方法と同様一般から特殊へと判断する演繹的方法も表裏一体となって指導されなければならない。

(つづく)

 

(研究要録1960年、P.3-11)