算数の学びと指導ー市原式

唯物弁証法の視点から算数教育を見直した小学校教師の著作集

子どもの論理(8)

5. 子どもは、帰納的に考える。

 

 わたしが、教壇に立ってまもない頃の経験である。

 3600×4といったかけ算で、0を処理して計算する方法を指導したことがある。

“3600円は100円ざつで何枚ありますか。“

”36枚です。“

“そうですね、そうすると、3600円の4倍は、100円ざつで何枚になりますか。”

”----------”

“3600円は、100円ざつで36枚でしょ。だから36枚を4倍すると---“

”144枚です。“

“そうです。そうすると100円ざつ、144枚でいくらになりますか。”

”14400円です。“

“そう、14400円ですね。”

“だから、こういうときは、

3600×4=100×36×4=36×4×100

として、36×4を計算してから、100倍してもいいのです。“

 わたしは、具体的にそして理路整然と説明した心算であった。

 ところが、子どもたちには何かピンとこない様子であった。それがわたしには不思議でならなかった。

 しかも、こうした経験は再三、再四ではなかった。授業の途中であせりがでて、わたしが、かみくだいて説明すればするほど、子どもたちはわたしから離れていった。

 そうして、このような失敗は研究授業とかなんかで、教材研究に時間をかけたときほど多かった。わたしは悲しかった。

 それから、2・3年たって2年生を担任しているときであった。

 基数に基数をよせて繰り上がる計算の指導をするため、

“みち子さんは9円もっています。おにいさんから3円もらうと、なん円になるでしょうか。“

という問題をだした。

 勿論、その時間は数え足す方法で結果を求めさせればよいと考えていた。

 多くの子どもたちは、

“10、11、12“

と指を折って

“12円になります。”

と、こたえた。

“じゃ、おにいさんから5円もらったときは、”

とたずねた。子どもたちは

“14円“

とこたえた。

 わたしは、つぎつぎと問題を出して、黒板に

  9+3=12

  9+5=14

  9+2=11

  9+4=13

  9+7=16

  -------

とかいていった。子どもたちの計算はだんだん速くなり、手も多くあがるようになった。子どもたちは

“ハイ、ハイ”

と連呼して大変な調子であった。そして、

“先生、いいことみつけたよ。”

というのである。

“あんね、9+7のときはね、7から1とりゃいいよ。”

わたしは、これだと思った。今までだったら9に3をよせるときは、9は10に1たりないから、3を1と2にわけて、9たす1で10、10に2をたして12になります。といった調子の説明をするところだった。そして失敗していた。

 ところが、このときは教えるまえに子どもたちは、繰り上がりの計算を理解してしまったのである。しかも、ひとりやふたりでなくて、クラスの大半の子どもが、

(つづく)

 

(研究要録1960年、P.3-11)

子どもの論理(7)

 さて、いろいろなものの数を心象によってとらえることが、抽象数による計算への橋渡しになる理由を考えてみよう。

 その理由は、いろいろ考えられるであろうが、1つはそれらの具体物がもつ色とか形とか位置を自由に変形させたり、簡素化したり捨象したりすることが容易になるからだと考えられる。

 尚、ここで具体的に考えるということと、具体物で考えるということの相違を明らかにしておかねばならない。

 まえにあげた例についていうと、かくれんぼの計算は、子どもたちが具体的に考えたよい例であり、おはじきの計算は具体物で考えた例である。具体的という場合は、具体そのものでなくても、そうしたものを心にえがくだけでよい。

 そして、算数の指導では、具体的に考えさせることは大切であるが、いつまでも具体物にとどまって考えることは、一般化をさまたげる原因にもなることに注意したい。

 4+2を具体物であるおはじきにおきかえると、計算というよりも、たんなる数える操作に終わってしまうからである。

 このことは、高学年の子どもの場合でもいえる。

を右のような図で示すと、子どもたちは計算しないで、図から結果だけをみて“5分の3”と答えてしまう。これでは同分母の場合は分子だけをよせればよいといった意識があまり働かない。

 そこで、わたしは、たんに1本の直線を示すだけで、区切りを入れないで考えさせた。

 子どもたちは、自分の頭の中で区切りを入れ、2+1と考えて“5分の3になる”と答えた。そして

も、同じように分子だけをよせればよいことに気づいた。

 4年生の子どもに

”12cmのテープを2つに切って、長いほうが短いほうにお2ばいになるようにするには、どのように切ったらよいでしょうか。“

という問題を考えさせたときも、わたしは、黒板にただ一本の直線をひいただけで考えさせた。

 それだけで、この問題を具体化するのに充分であったし、基準を1とみなければならないことにも気づかせることができた。

 しかし、図解を否定しているのではない。図解によって、あとから思考の裏付けをすることは理解を確かにする上からいって極めて大切である。

 もう一つ、具体物を持ち出すことの危険についてふれておこう。これは聞いた話である。

 ある先生が、3年生の子どもに分数の概念を指導しようとして、実際のりんごを4つに切って、1つのりんごを同じ大きさに切った一切れは“4分の1”であり、その3切れは、”4分の3“であると説明した。ところが子どもたちは、そのりんごの形がゆがんでいたため、それは、同じ大きさに切れていないといってきかなかったというのである。

 なるほど、ありそうな話である。

 さんすうでは、どんな場合でも、具体そのものを対象とするのでなく、そこになんらかの理想化があり、抽象化があることを忘れてはならない。

 3このりんごと2このりんごを合わせて5こというときも、1つ1つのりんごのもつ質的なちがいや、いろのちがいを捨象していっているのであり、時速50kmの列車という場合も、発射直後、停車直前の状態や途中のスピードの変化を考えないでいっているのである。

 このことからいっても、算数では、具体的に考えさせることと、具体物で考えさせることとを区別することが大切である。

(つづく)

 

(研究要録1960年、P.3-11)

子どもの論理(6)

4. 子どもは、具体的に考える

 

 30+20、50−15---が、わからなくても、これをおかねで考えさせると、わけなく計算する子どもがいる。これは誰もが知っていることである。

 わたしが1年生を担任していたとき、図のような情景を黒板にかいて

“よしおくんたちは、かくれんぼをしました。7人かくれました。4人みつけました。まだなん人かくれていますか。”

とたずねた。そのとき一人の子どもが

“2人かくれています。”

とこたえた。すると、Kという子どもが、そのあやまりを指摘して

“先生、ちがうよ。まだ、むこうの木にひとりかくれているよ。”

と叫んだ。

 なるほど、“まだ、むこうの木にひとりかくれている”とは、いかにも1年生の子どもらしい考え方である。Kは、ひとりひとりがどこにかくれたかを頭の中にえがいていたにちがいない。だから“むこうの木にひとりかくれている”とこたえたのである。子どもたちは、このように全く具体的に考えている。低学年の子どもは、とくにそうである。

 したがって、抽象的な数の計算になると、大きな抵抗を感ずる。

とたずねると、すぐにこたえられる子どもでも

“4と2では、いくつですか。”

と、いうとできない。

 おはじきの場合は、かぞえればよいが、数字の場合は、かぞえることができないからである。そこで、従来の指導では、この抽象数と具体数の間を、なんどもなんども往復する以外になかった。

 わたしは、何かその過程に欠けているものがあると思った。

 そして、それが心象であることに気づいた。

 かくれんぼの話に例をとろう。

 かくれんぼの問題では、情景こそかかれたけれども、具体的な人のかずはかかれていなかった。けれども子どもたちは、“あの木のむこうにひとり、この木のむこうにふたり、あのくさむらにひとり”とひとりひとりの姿を心にえがいていたにちがいない。それは、具象でも抽象でもなく心象である。

 また、30+20がわからなくても、30円と20円ではいくらですか。ときかれると正しいこたえが求められるのは、おかねを心象にえがいているからである。

 算数の指導では、いつまでも具体にとどまっていることは許されない。どうしても抽象までもっていかねばならない。そのためには具体と抽象のかけ橋として心象を積極的に利用すべきであると思った。

 わたしは、かごの中に入っている柿を心象にえがかせたり、菓子ばこや戸棚の中に入っているおまんじゅうを心にえがかせたり、石の下にかくれている蟹を想像させたりして、この心象計算を指導した。

 はじめは、一方をかごとか箱とか石とかでかくし、つぎには両方ともかくして考えさせるというように、順次具象から心象へもっていった。

 ここで、留意しなければならぬことは、常に数字と結びつけることである。そうしなければ、なかなか数字だけをみて数を心象にえがくことができるようにはならない。

 しかし、このように指導していても、子どもたちは与えられた数が抽象数である場合は、その数を指におきかえて計算しようとする。この場合、やはり指を心象にえがくようにさせることが大切である。波多野完治氏も“算数の学習心理”の中でいっておられるように、指による計算は足場としては必要であるが、その足場は、適当な時期にとりのぞかれねばならないからである。

(つづく)

 

(研究要録1960年、P.3-11)

子どもの論理(5)

 異分母分数の大小を指導しているときであった。

下の問題で

と導いたとたん、Sが立って答えた。

“先生、わかった。分母も分子も小さい方が大きくなるのやね。”

わたしは、全くがっかりした。

 Sは、たまたまそのときの分数が分母・分子ともに小さい方が、大きくなった1回の経験から、分母・分子ともに小さい方が大きくなるのだと結論づけてしまったわけである。わたしにしてみれば、下のような問題では、分子、分母ともに小さい方が小さくなるという結論を導く心配があるというので、上のような問題を選んだわけであるのに、逆ねじをくった感じであった。

 しかし、わたしは、

“なるほど、じゃこの問題をやってみよう。”

といって下の問題をだした。

Sは、自分の判断の誤りに気づいた。

 このことから、子どもたちの正しい論理を伸ばすためには、特殊な問題に限定しないで、いろいろな場合について経験させることが大切であることに気づく。

 わたしたちは、ともすると1つの具体的な問題から直ちに一般的な結論を導き、それで充分だと考えがちであるが、大いに反省すべきである。

 ここでいっている特殊、一般の問題は、問題そのもののもつ特殊性、一般性の問題ではない。四角形としては、右の方がより一般的であろうが、それはまた特殊な四角形ともいえる。四角形というとき、常に右のような形のみをとりあげれば、やがて正方形は四角形でないと判断することになる。一般は特殊と対立するが、数多くの特殊を通してのみ得られるものである。

 最初に引用した小数による乗除の問題を考えてみよう。これも、子どもたちの経験の特殊性から来ることは前に述べたとおりである。

したがって、5年で

(整数)×(小数)、(小数)×(小数)、(整数)×(小数)、(小数)÷(小数)

の計算を指導するにあたっては、少なくともそれ以前に、倍概念の拡張をしておく必要があった。

 即ち、4年の2.9÷2、3.4÷4、6÷8といった計算指導のとき、”6mのひもを8人で同じように分けると、ひとりぶんの長さは、なんメートルになるでしょうか。“といった等分除の問題を使って、たんに計算技術だけをおさえるのでなく、この第一用法と結びつけて、6÷8が0.75になることから6は8の0.75倍であるといった理解をさせていおくべきである。

 従来はこのような段階がふまれていなかった。それが、5年に於ける小数倍の指導を困難にしている最大の原因であろうと思う。

(つづく)

 

(研究要録1960年、P.3-11)

子どもの論理(4)

3. 子どもは、経験から考える

 

 5年生で、小数の乗除を一通り指導した直後

”125÷0.75の答えは、125よりも大きくなると思うか、小さくなると思うか。“

とたずねてみた。

 その結果、48人中26人は125より小さくなると答え、22人が125より大きくなると答えた。

 そして遂に、その討論で1時間かかってしまった。

 その中でも、KとMとは最後まで125より小さくなると主張してきかなかった。

“125を0.75でわるのやろ、わったら小さくなるにきまっとるがね。”

“0.75は、小数やけど、わることにはかわりがないのだから、少しは小さくなると思う。”

というのである。

 KもMも計算のうえでは、大きくなることを認めていたが、どうしても実感として大きくなるとは考えられないと言うのである。

 これと全く同じことが(整数)×(小数)の計算を指導するときにも問題になった。

“1ℓ65円のす、0.3ℓのねだんは、いくらでしょうか。”

という問題で考えさせたとき、一部の子どもたちは、

“0.3ℓのねだんは、1ℓのねだんより少なくなるから65÷0.3としなければならない。”

といってゆずらなかった。

 

 さて、このような子どもの論理は、何に原因するのであろうか。

 これまでに子どもたちが経験していることといえば、整数でかける場合と整数でわる場合とに限られていた。しあがってかけ算の結果は大きくなるもの、わり算の結果は小さくなるものと信じきっていたからである。

 即ち、子どもたちのこのような論理は、彼等の経験の特殊性に由来する。

 子どもたちが、上のようにおかれた台形を、台形でないと判断するのも、下の図のような形には直角が2つしかないと考えるのも、みなこの経験の特殊性に由来するといってよい。

 台形や直角を常に安定した位置でのみ捉えていた経験が、そうした判断に導くのである。

 さて、このような子どもたちの論理の特殊性は、どのようにして取り除くことができるだろうか。

(つづく)

 

(研究要録1960年、P.3-11)

子どもの論理(3)

 この9月15日に行われた岐阜県算数教育研究会の大垣市興文小学校の授業では、つぎの問題で指導してみた。

”1㎗45円のサラダ油、3.3㎗のねだんは、何円になるでしょうか。“

子どもたちは、1㎗45円のサラダ油、3.3㎗のねだんがおよそ45円の3倍になることから、1㎗45円のサラダ油、3.3㎗の正確なねだんは、45円の3.3倍になると考えた。

 そして、45円の3.3倍は、45円の3倍と、その10分の1とを加えればよいので

45×3=135

135÷10=13.5

135+13.5=148.5

と計算させ、45円の0.3倍は、45円を3倍して、10で割ればよいことに気づかせた。

 この考え方こそ、整数かける小数の計算法にそのまま結びつく考え方である。わたしたちが45×0.3を積算でするとき45×3を計算して135を求め、小数点を3と5の間にうつのは、135÷10の計算をしているのである。

 こうして45×0.3は45×3÷10で求められ、

45×0.2は、45×2÷10

45×0.8は、45×8÷10

45×3.3は、45×33÷10

45×6.3は、45×63÷10

で求められることを明らかにして、これを積算形式に結びつけた。

 さて、このときえらんだ問題では、第1に素材を、サラダ油にとって、1㎗という単位をもってきたことに意味がある。5月に指導したときは単位を1ℓにとったため、1㎗という10分の1の単位を考えることが、小数倍の計算法を知らない子どもたちの自然な考え方となったわけである。しかし、このときは、1㎗という単位を考えることの必然性を除き、45×0.3は45×3÷10で求められると導いたのである。

 第2は、問題の中でとりあげた数値を、45円の3.3倍としたことにある。5月にとりあげた65×0.3では、整数倍をよりどころとすることができなかったけれども、このときは、45円の3倍をよりどころにしてその10分の1を考えることが、手ぎわよい方法として子どもたちに納得できるようにしたのである。

 子どもたちの論理と教師のねがいとを一致させるためには、問題のもつ必然性を考慮しなければならない。

 そのためには、このように問題を素材の面からと、そこにえらばれる数の内容の二面から考える必要がある。

 2年生では減々法と減加法を指導するがこれも全く同じことがいえる。

 減々法を理解させるためには、“おはじきあそびをしています。はじめに12こありました。よしこさんが3ことりました。あといくつのこっているでしょうか。”---(A)

といった問題がよく、減加法を理解させるためには、

“12円もっています。9円のノートをかうと、いくらのこるでしょうか。”---(B)

といった問題がよい。

 (A)の問題では、おはじきの具体的操作から考えて、12こから1ことって11こ、2ことると10こ、3ことると9こと数え引く操作を足場に、12こから2ことって10こ、10こから1ことって9こと、極めて自然に減々法を導くことができる。

 しかも、そこでとりあげた数値からいっても、

10−3=7、7+2=9と考えるよりも、

12−2=10、10−1=9と考える方がはるかに容易である。

 (B)の問題では、おかねを支払うという現実的操作から考えて、10円出して1円のおつりをもらい、おつりの1円とさいふに残っていた2円とをたして3円と計算するのが自然である。

 加うるに、そこで取り上げた数値からいっても、9円を2円と7円に分解して、12円から2円ひいて10円、10円から7円ひいて3円と計算するよりも、12円を10円と2円に分解して、10円引く9円は1円、1円たす2円は3円と計算する方がはるかに容易である。

 わたしたちの学習指導が成功するかしないかは、実にかかってこの問題の決定にあるといっても過言ではない。

 そして、その問題の決定にあたっては、素材と数値の両面からくる必然性を考え、子どものねがいと教師のねがいとを一致させることが大切である。

(つづく)

 

(研究要録1960年、P.3-11)

子どもの論理(2)

2. 子どもは、すなおに考える。

 

 5年生の5月だった。

 わたしは、整数かける小数の計算を指導しようとして

“1ℓが65円のすを、0.3ℓ買います。何円になるでしょうか。”

という問題を黒板にかいた。

 やがて、子どもたちのノートには

   

とかかれた。そして

”0.3ℓは3㎗でしょ。そして1ℓは、10㎗だから65÷10=6.5、1㎗が6.5円になるから6.5×3で19.5円になります。“

と指名されたSは説明した。ほかの子どもたちも、その解答に満足していた。“そう、それでいいですね。”

 わたしは、一応肯定したものの、勿論それだけでは満足できない。この考え方は、小数かける整数であって、整数かける小数の計算ではないからである。

 整数かける小数の計算のしかたを理解させるためには、この子どもたちの考え方を足場に、65÷10×3=65×3÷10と式の上で変形して導くか、0.3㎗は3ℓの10分の1であると視点を変えさせて、3ℓのねだんから導くかしなければならない。

 ところが、式を変形して導くことは、65×3の意味が理解されないので、子どもたちはどことなく不安を感じ、なにか煙にまかれた気持ちになる。そこで

“じゃ、この3㎗のねだんを3ℓのねだんから求めることは、できませんか。”

とたずねた。

 しかし、5、6名の子どもを除いて、多くの子どもたちはなにかピンとこない様子であった。わたしはもう一度、同じ問いを繰り返した。子どもたちの挙手はようやく増えたけれども、どうもしっくりしない。

 わたしのねがいは、はずれた。授業は終わった。

“どうして先生が、3ℓのねだんから考えられませんかと聞いたとき、すぐ手が上げられなかったの。”

休み時間にわたしは、子どもたちにたずねた。

“でも、どうして3ℓのねだんから考えなければならないのか。わからなかったの。”

“突然、あんなことを言いだすから、なにがなんやらわからなくなってしまった。”

“ふつう、あんな考え方しないじゃないの。”

 これが子どもたちの論理である。なるほど、1ℓ65円のす、0.3ℓのねだんを求めるのに、3ℓのねだんを求めてからその10分の1を考えるようなことは、小数倍の計算方法を導くための手段であって、たしかに一般的な方法とはいえない。それは小数倍の計算法を指導しようとしている教師のねがいであって、それを知らない子どもたちのすなおな論理ではない。この場合子どもたちにとって最も自然であり、安心できる解き方といえばやはり1㎗のねだんを求めて、それを3倍することである。

 では、この場合どうすれば子どもたちのすなおな論理にのって、整数かける小数の計算法を導くことができるであろうか。“

(つづく)

 

(研究要録1960年、P.3-11)