算数の学びと指導ー市原式

唯物弁証法の視点から算数教育を見直した小学校教師の著作集

さんすう すらすら(9)

Ⅸ. 算数と生活

—のびのびとした思考力—

 

1. 大西式の計算法

 わたしのクラスに大西という子がいました。2年生のとき、26+39というくり上がりのある計算を教えていたときこんなことがありました。

「先生26+39はくり上がりなしでもけいさんできるよ」

「どうして」

「だって、39は40に1たりないでしょ。だから26にまず40たすと66、66から1をとれば65になるので、くり上がりをかんがえなくても答えがわかるよ」

 わたしも、他のこどもたちも“なるほど”とすっかり感心してしまいました。

 大西式のやり方をすれば37+25でも37+30ー5と考えれば、くり上がりなしで計算できます。

 62ー38というくり下がりの計算も大西式でやれば62ー40+26とくり下がりなしで計算できることを、このとき、クラスの子たちは発見しました。

 

2. やわらかい思考力

 わたしは、二位数のくり上がりくり下がりのある加減計算で、この大西式の考え方を一般化しようとは思いませんが、大西君の自由で、やわらかい思考力こそ算数でねらいたい大切な思考力だと思うのです。

 大西君の自由でやわらかい思考力はどうしてつちかわれたのでしょうか。

 第1に、大西君自身の生活態度とその家庭環境にあると考えました。大西君が、1年生になって間もないころでした。かれはどんなことにも夢中になれる子でしたが、その反面とても自由でのびのびとしていました。あるとき、かれは「先生、ぼく、ちょっとたいくつになったから運動場1回散歩してくるよ」といって、教室からとび出してしまったのです。あっけにとられているとしばらくしてから「ああ すっきりした」といって教室にはいってきました。

 また、かれの家を訪問したときのことですが、きょうは家庭訪問だというので、学校から帰ると外へあそびにもいかないで待っていてくれました。わたしが玄関にはいると、かれも、かれの弟も、わたしの腕にとびついてきて応接間へ案内してくれました。そしてわたしのひざにとび乗って大はしゃぎです。それを見たお母さんも「先生にだっこしてもらっていいね」とにこにこしていました。なんという明るくてとらわれのない自由な家庭のふんいきだろうと思いました。大西君のあの自由でやわらかな思考力は、こうした自由であたたかい家庭のふんいきでつちかわれたのだろうと思いました。

 

3. クラスのふんいき

 第2は、わたしのクラスのふんいきと授業のすすめかたにあると思いました。

 わたしは、暴力の禁止以外は、こどもたちの要求にもとづいて学級の規律を確立するようにしました。入学して間もなく、給食が始まりました。手洗いのとき、わんぱくのA君があとからきて、みんなが並んでいる列に横からわりこもうとしました。当然、小さなトラブルがおきました。

 それをみていたわたしは、みんなに

「A君が、横から列にはいろうとして、K君とけんかしているよ。みんなどう思う」とききました。

 こどもたちは「そりゃ、A君がいかんよ、うしろにならばな」と抗議しました。そして“わりこみなし”ということを、こどもたちできめました。

 このように、学級の問題は教師の圧力で解決するという方法でなく、子どもたちの集団による自由で民主的な話し合いで解決するようにしました。わたしはこどもたちの要求をまとめる役割を果たしました。

 授業のすすめ方も、基本的には同じ考えでおこないました。

 23+46といったくり上がりのない計算も教科書にかいてあるように「23に46をたすときは、23に40をたして63、63に6をたして69とやるのです」と教師が一方的に計算方法をおしつけるのでなく、子どもがどう考えるかを大切にし、その結果くり上がりのない計算では一の位から計算する必要はなく、頭加法で計算すればよいというこどもたちの考え方を認めるという授業のすすめ方をしてきました。

 だからこそ、38+46というくり上がりの計算にぶつかったとき、なんの矛盾もなく、大西君のいたクラスでは、38+50ー4という考え方が生まれ、他のクラスに教えたときは、一位の位から計算するいわゆる筆算方式がもっとも合理的な計算方法として子どもたち自身によって工夫され、頭加法から尾加法へとスムーズに切りかえることができたのです。

 いま、23+46といった計算を暗算方式で指導するか、筆算方式で指導するかが問題になっていますが、いずれの方法にせよそれを形式的におしつけるということをすれば、こどもの頭はコチコチのゆでたまごのようになり、生命のない、創造性を失ったものになってしまうでしょう。

(おわり)

 

新聞「赤旗」に掲載。掲載時期は不詳。1980年代と思われる。