算数の学びと指導ー市原式

唯物弁証法の視点から算数教育を見直した小学校教師の著作集

教えたいことを 教えないで学ばせるには(5)

 図形の概念もまったく同様です。「がようしの形をしらべてみましょう。かどは、どんな形でしょうか。」と言って一枚の画用紙について調べさせ、そこから直ちに「かどが、みんな直角になっている四角形を、長方形といいます。」と定義しても、それで長方形の正しい概念が形成されるというものではありません。ななめにおかれた長方形や極端に細長い長方形を認めない子どもがいるのは、こうした指導の結果です。子どもたちは、定義を導くためにとりあげられた画用紙のいろいろな属性が捨象しきれず、大きさや位置などまで長方形固有の性質として把えてしまうからです。

 このような状況に対して、一部の人々は“特殊から一般へ”という、従来の指導体系に原因があるとして“一般から特殊へ”という指導原理を提起しました。たしかに、特殊即一般という認識は誤りです。しかし、“一般から特殊へ”という指導原理に立脚すれば、こうした誤りはすべて克服できるでしょうか。勿論、この場合、何を一般と考えるかが問題ですが、仮に下のような位置に置かれた長方形を一般的なものと考えてみましょう。

ところが、これまた極めて特殊な位置にある長方形といわなければなりません。したがって、こうした形だけをとりあげて長方形を定義すれば、このような位置にあるものだけが長方形なのだといった誤った認識を与えてしまう結果にもなるのです。

 いずれにしても、学問としての数学の体系は、定義から出発しますが、算数教育では、定義を出発点とするのでなく、数多くの実在する具体物を出発点として、そこから抽象された普遍的な概念として導くのでなくてはなりません。

 わたしは、長方形の指導で、さまざまな四角形と下の図のような五角形も準備して、教壇に立ちました。

そして、

「今日は、長方形という形について勉強します。」

といって、八つ切りの画用紙を見せて、

「この八つ切りの画用紙は、長方形です。」

といって、黒板に貼りつけました。

「なんや、長方形は、長四角のことや。」

と、子どもたちは、つぶやきました。わたしは、それにはかまわず

「これも、長方形です。」

と、いいながら、名刺やテープのように細長い長方形をつぎつぎに黒板に貼っていきました。勿論。貼り方も、横、縦、斜めと変化をつけました。

 そして、つぎのような四角形をとりあげ

「これは、長い四角ですが、長方形では、ありません。」といって、除外しました。

子どもたちは、

「わかった。わかった。ぼくたちに選ばさせて。」

とさかんに要求しました。(勿論、この要求は計算ずみですが)子どもたちは討論しながら正しく長方形を選び出しました。そして選び出す討論の過程で長方形についての確かな概念を獲得していきました。

 即ち、子どもたちは、(あ)(い)(う)(え)(お)---などの図形がどれも“長方形”という同じ信号に結びつけられることによって、長方形とは大きさや位置、そして縦・横の辺の長さの割合などには関係なく、“四つの角がみな直角になっている四角形である。”という認識を自ずから獲得したのです。

 勿論、授業は、ここで終わるのでなく、こんどは、この定義を使って他の図形を確かめたり、長方形の作図をしたりして、その概念を一層確かなものとしました。そして、こうした定義が作図や確かめをするのに威力を発揮することにも気づかせました。

 

第二信号系の役割

 ここで、第二信号系(言語)の果たす役割について簡単に述べておきたいと思います。

 パブロフは、感覚によって構成される第一信号系と、言語によって構成される第二信号系による反映のメカニズムを発見しました。

そして

(1)第二信号系は、第一信号系を通してのみ、外的世界、実在との結合を実現すること。

(2)抽象と一般化、一般概念の形成は、ただ第二信号系によってのみ可能であること。

を明らかにしました。

 ところが、従来は、ともすると概念形成における用語の果たす役割が正しく評価されず、数学的に定義したあとで「―――を長方形といいます。」というように、用語を教えるのが一般的傾向でした。たしかに、学問としての数学書の叙述形式としては、それは当然であり、必要なことです。しかし、そのことは、算数教育の世界では通用しないのです。

 

 まさに、概念の形成こそ、教えるのでなく、学ばせるものです。次回は、子どもの論理をいかにひき出すかということについて述べたいと思います。

(つづく)

 

(算数数学指導 小学校編 大阪書籍(1976年) さんすう・しどう・ノートより)