算数の学びと指導ー市原式

唯物弁証法の視点から算数教育を見直した小学校教師の著作集

例題主義の批判とその克服(1)

1. はじめに

 数学といえば、演繹的な思考こそ、その本領であるという考え方がある。

 けれども、小学校の子どもに、いきなり演繹的な思考を要求しても、これまた無理があることも常識となっている。そこで、従来からとられてきたのが、例題による説明である。即ち、一つの典型的な例題をとりあげ、その例題から普遍的命題―一般的数理―をひき出し、その数理に基づいて類似問題を解かせるというのが、従来の算数教育を支配してきた方法である。私はこうした指導を例題主義と名づける。

 しかし、一つの例題から、その例題がどんなに典型的なものであっても、それから直ちに一般的数理をひき出し理解させることが如何に困難であるかは現場の教師であれば誰もが体験していることであろう。

 わたしが、かつて5年生の子どもに、真分母分数の大小比較を指導したときのことだ。(3/5,2/3)を比べさせ、3/5は9/15,2/3は10/15であることから、“2/3は3/5より大きい。”と結論を導いた。そのとき、ひとりの子どもが

「先生、わかった。分数は分母も分子も小さい方が大きくなるのやね。」

と叫んで、わたしをがっかりさせたことを憶えている。わたしにしてみれば、(3/5、1/3)という問題では、分母、分子共に大きい方が分数としても大きくなるという結論を導く心配から、あえて(3/5,2/3)という問題を選んだのに、全く逆をとられた形になってしまったのだ。

 こうしたことから、一つの例題から普遍的な結論をひき出すことが、如何にむずかしく、また危険であるかがわかる。

 水道方式は、こうした誤りを克服する方法として、典型的な一般型を最初に例題としてとりあげ、一般的方法を理解させようというのである。しかし、それは一般的方法を理解させることはできても、数理を発見させ一般的方法を導き出す教育方法ではない。

 教育の目的が“未来の社会をになう主体的人間の育成”ということであれば、算数教育もまた主体的人間の育成にふさわしい主体的学習を保証することが大切である。

(つづく)

 

(1980年代と思われる。掲載雑誌は不明。「算数アラカルト 算数教育への提言(2)」より)